土地計画と入植運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 08:18 UTC 版)
「チャーティズム」の記事における「土地計画と入植運動」の解説
1843年後半、オコナーは「土地計画」なるものを発表した。 土地は飢えた農民を救済する唯一の方法であり、土地の小規模な個人所有の拡大を通じて労働市場に公正をもたらす、それゆえ、土地を地主の独占から勤労者の手に取り戻すという理想を掲げた。方法はシンプルで、基金を設置し、チャーティスト労働者から分割払いで少額の資金を集めてプールし、基金を元手に地主からの土地買収を進めることを計画した。そして、土地は2〜4エーカーほどに分割して小規模の農場を新設し、そこに労働者を入植させるというものであった。ロバート・オウエンによるニューハーモニーといった「共産村」と随所に違いはあったが、これ以降、土地回帰を目指す「小農創設」運動として発展していく。1845年4月「チャーティスト土地会社」(英語版)が発足、一株2ポンド10シリングで購入を求めた。株を購入した労働者は4200名に達し、9万4000ポンドを積み立てた。1847年頃には「土地計画」が最盛期に突入、チャーティスト運動の再生と活発化に貢献した。 しかし、オブライエンやクーパーらを中心にオコナーへの内外からの批判が強まった。農業経験の乏しい人々の努力は成功し難く挫折して支持者を落胆させるとか、仮に成功してもその恩恵は少数しか享受できない、「土地計画」はチャーティズムを分裂させ、本来の運動目的からそらさせるといったものであった。激しい批判と攻撃により1848年以降は衰退傾向になっていく。一九世紀後半になると、こうした運動はブリテン政府の土地政策でよく似た計画が建てられ、おもにアイルランドで自作農創設策(これは土地購入費の貸出支援策であった)として実施される。
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