国外逃亡と精神疾患
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今度の亡命期間中リエルはニューヨーク州プラッツバーグ近郊にあったフランス系カナダ人の村キースビルで暮らしたが、ここでルピーヌの命運について知らせを受けた。それは1874年10月13日に始まったスコット殺害容疑に係る一連の裁判で、ルピーヌは有罪となり死刑判決が下されたというものであった。この判決に対し、Lepine に同情的であったケベック州の新聞は憤怒の報道を行い、ルピーヌ、リエル両者の恩赦を求める声に再び火がついた。こうした状況は、ケベック州、オンタリオ州双方からの要求を受けて解決の糸口のみつからない板ばさみにあったマッケンジー首相にとって、厳しい政治的問題を露呈した。しかし、時のカナダ総督であった初代ダファリン・アンド・アーヴァ侯爵フレデリック・ハミルトン=テンプル=ブラックウッド自らの主導により1875年1月にルピーヌが減刑され、解決が図られた。このことによってマッケンジー首相にとっては当時亡命生活5年に及ぶリエルの恩赦を議会から得る道が開かれた。 逃亡生活においてリエルは、政治よりも宗教的な事柄についてより深い関心を持つに至った。彼に対し同情を示したケベック州のローマ・カトリック系司教の督励もあって、徐々に自らをメティの指導者として神に選ばれた者であるとの信念に感化されていった。現代の伝記作家の中には、当時のリエルが誇大妄想的な心理状態に陥っていたのではないかと推定する者もいる。神経が耗弱し、突然の暴力が続くようになるとモントリオールに連れて行かれ、叔父のジョン・リーの看護の下で数ヶ月を過ごした。しかしリエルが宗教儀式の妨げとなる挙動を示すようになると、叔父のリーは1876年3月6日に彼を「ルイ・R・ダヴィッド」の偽名でケベック州の Longue-Pointe の精神病院で拘禁状態に置くような手はずを整えた。さらに事の露見を恐れた医者は「ルイ・ラロシェロ」の変名を使って彼の身柄をケベック市近くにあったボーポール病院へ移送した。リエルは散発的に襲ってくるわけのわからない激情に苛まれながら、自らの信仰に関する著述を続け、キリスト教とユダヤ教とが混合したような神学の小冊子を編んだ。そして、自らを新世界の預言者ルイ・"ダヴィッド"・リエルと呼ぶようにさえなった。しかし、症状は徐々に回復し、1878年1月23日に穏やかな暮らしを送るようにとの勧告を受けながらボーポール病院から開放された。リエルは程なくキースビルに戻って、友人の修道会献身者ファビアン・バルナベ(Fabien Barnabé)神父の娘エヴリナ・マルタン・バルナベ(Evelina Martin dit Barnabé)と情熱的な恋に落ちた。リエルは、彼女がついて来てくれるかもしれないと期待しながらも、求婚の言葉を十分伝えずに西部へ向かった。しかし、彼女はプレーリーでの生活にはなじめないであろうと考え、彼らの連絡も間もなく途絶えた。
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