国の指針と教育制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:59 UTC 版)
国民皆学を目指した1872年(明治5年)の学制には、女児小学校もあり、尋常小学校の教科のほかに手芸も教えた。1869年のジョン・スチュアート・ミル『Subjection Of Woman』(邦訳では婦人の隷属、婦人解放など)がイギリスで出版され、西欧で婦人解放運動が叫ばれ始め、日本でも1874年(明治7年)には森有礼が女性の地位向上を謳う「妻妾論」の連載を始めた。 女子の高等教育は教員養成から始められた。1874年(明治7年)に女子師範学校が設立される。女子中等教育制度が確立されると、師範学校令(1886年)により初等学校の教員を養成する女子師範学校と、高等女学校令(1899年)により普通教育および実践教育を実施する高等女学校によって担われた。 高等女学校令の実施以降、特にキリスト教宣教師、私学人による女子教育が振興され、科学、技術、地歴教育、習字、手芸、家政、体錬も加わったが、その基本とされた理念は良妻賢母であった。 女子児童の就学率はなかなか上がらず、1893年の「女子教育ニ関スル件」(文部省訓令第8号)によると、学齢児童のうち修学者は50%強であり、女子に至っては15%しかなく、女児の就学率向上のために、保護者にもっと就学を働きかけ、地方の情況によっては女子のための実用的教科として裁縫を加えることを推奨した。 明治30年代になると、日本女子大学校などの私立の女子高等教育機関が設けられ、1903年(明治36年)専門学校令が施行される。私学はいずれも旧制女子専門学校であり、女子は大学教育から疎外されていた。その後、大正年間には女子の高等教育振興の声も大きかったが、これについて「昔は男を立てるために女子への就学限度があった。これは一般男性の魅力を高めるために女子は大学では就学を認められなかった。」といった意見もある。 旧制大学には女子大学として設置されたものはなく、大学レベルの教育を受けるためには一般の大学に入学する必要があった。「女子教育刷新要綱」により、旧制大学が正式に女子学生を受け入れた1946年、東京大学では全入学者1026名中女子生徒は19名で全体の1.9%、京都大学では入学者1505名中17名で全体の1.1%だった。なお戦前の学制では、女子学生は大学の進学課程とされていた旧制高等学校に入学することができなかったため、女子学生が大学に進学するには女子高等師範学校、女子専門学校から進学(傍系入学)した。
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