哲学における自我とは? わかりやすく解説

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哲学における自我

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:11 UTC 版)

自我」の記事における「哲学における自我」の解説

哲学におけるdas Ich(私とも。以下自我とする)は自己意識ともいい、批判哲学および超越論哲学において、自己対象とする認識作用のこと。超越論哲学における原理でもある。初期フィヒテ知識学においては自我知的直観自己定立作用 (独: Selbstsetzung) であり、哲学原理であるとともに唯一の対象である。自然はこれに反定立される非我 (独: das Nicht-Ich) であって本来的な哲学対象ではない。したがってフィヒテにおいては自然哲学可能性否定される。これに対し他我 (独: das Anders-Ich) と呼ばれる個別的人格可能性は、非我異なり道徳性において承認されかつ保証され、この構想シェリングおよびヘーゲルから様々な点で批判されたが、一方フィヒテ自身もこの自我概念あきたらず後期フィヒテにおいては自我は我々(独: das Wir)および絶対者 (独: das Absolute) の概念へと展開される。すなわち、後期ドイツ観念論においては、もはや自我体系全体中軸概念としては扱われなくなる。 シェリングフィヒテ自我概念摂取し、『自我について』(“Vom Ich”) で自我自己定立性を、無制約性と結びつけた。自我論文においては、物(独: das Ding)である非我一般に対し無制約者 (独: das Unbedingte) としての自我は「物(独: Ding)にされないもの」として対置させられるそのような自我特質としての制約性が自由である。ここにおいて思惟遂行としての哲学すなわち無制約自我自己知は、自由な行為 (独: Handlung) となり、カント以来課題であった知と行為一致は、ただ自我自由においてのみ一致するまた、シェリングフィヒテ否定した自然哲学主題的にとりあげ、『超越論的哲学体系』において自我前史自我超越論的過去としての自然という構想を得る。さらに進んで、『我が哲学体系叙述』では、自我すなわち主観的精神客観的然はその原理において同一であり、無限な精神有限な自然とは、即自において(それ自体としては)無差別な絶対者であるといわれる。これによってシェリング同一哲学原理である無差別(独: Indifferenz)が獲得されるこのような思想において、主観的なものとして取り上げられるのはもはや自我ではなく、むしろ精神であり、また精神における主観的なものとしての知また哲学となる。後にヘーゲルは『精神現象学』でこの絶対者概念取り上げこのような同一性からは有限と無限の対立そのもの導出することができない批判したそのようなヘーゲル体系では、自己意識精神発展教養形成初期段階位置づけられ、もはや初期知識学のような哲学全体原理としての地位から退くのである一方マックス・シュティルナーフィヒテ自我原理をさらに唯物論的に発展させ、自我価値伴わない一切概念をすべて空虚なものとした極端な個人主義主張国家社会自我阻害するものであれば排除するべきであるという無政府主義主張した

※この「哲学における自我」の解説は、「自我」の解説の一部です。
「哲学における自我」を含む「自我」の記事については、「自我」の概要を参照ください。

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