名古屋市中心部への路線延伸計画
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「愛知電気鉄道」の記事における「名古屋市中心部への路線延伸計画」の解説
「名古屋地下鉄道」も参照 1927年(昭和2年)4月に名古屋市電東郊線が堀田まで開通した。これを受けて、愛電は翌1928年(昭和4年)4月に豊橋線沿線から市電東郊線との連絡運輸による名古屋市東部への最短ルートの中継駅として堀田駅を開業、当時の最優等列車種別であった特急を含む全列車を停車させた。 さらに愛電は自社路線によって名古屋市中心部へ直接乗り入れることを計画、1927年(昭和2年)2月に名古屋市南区熱田から同南区金山に至る路線の敷設免許が交付され、さらに金山から中区西菅原町(現在の丸の内)に至る地下鉄道の敷設免許を申請した。この愛電による申請ルートは、旧・名古屋鉄道(後の名岐鉄道)が「名古屋地下鉄道」名義で1926年(大正15年)10月に免許申請した名古屋 - 熱田間の地下鉄道のルートと一部競合し、異なる事業者による2路線が競願する形となった。 ただしこれらの申請は、愛電および旧・名古屋鉄道(名古屋地下鉄道)とも事業内容に対して資本面が脆弱であったことから却下される可能性が高いと見られていた。また、愛電と旧・名古屋鉄道という名古屋地区を代表する二大郊外路線を相互連絡し、名古屋市東西方面を直通する路線とすることが利用者の利便性向上に繋がり、ひいては両社にとって将来の発展性の観点から極めて得策であるとの結論から、愛電と旧・名古屋鉄道の両社は共同出資で名古屋地下鉄道(資本金1500万円)を設立し、同社によって地下鉄道を建設する計画を策定した。 名古屋地下鉄道の路線は名古屋 - 熱田間 7.2 km、全区間を道路直下の地下に建設し、中途に伏見町・栄町・上前津・別院前・沢上の5駅を設置することとした。また旧・名古屋鉄道は起点駅を従来の柳橋から名古屋へ移転し、枇杷島橋付近から地下新線へ切り替えること、愛電は熱田 - 金山間の敷設免許申請を取り下げることなどが両社間で取り決められた。名古屋地下鉄道の発起人総代には愛電社長の藍川、旧・名古屋鉄道の代表取締役社長職にあった富田重助の両名が就き、その他両社の重役が全員発起人として参加した。 同計画は道路を管轄する名古屋市当局による意見提起を経て、1929年(昭和4年)1月21日に正式に関係省庁へ提出された。しかし、同時期に発生した昭和恐慌に端を発する経済情勢悪化によって資金調達が難航し、実現には至らなかった。なお、計画申請は1931年(昭和6年)6月20日に却下されている。
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