同族経営の機関銀行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/23 08:57 UTC 版)
1926年に和歌山県和歌山市に幸福無尽として発足。1951年に大阪市に本店を移転し、幸福相互銀行に商号を変更。1989年に普銀に転換し幸福銀行となる。 経営陣の陣容は社長に頴川徳助、実弟・勉二が副社長、長男・徳昭が専務と同族で経営の要職を固めていた。 頴川家の当主は代々徳助を名乗り徳助社長は5代目であった。自分の山林だけを通れば太平洋から日本海に出られると言われるほどの資産を誇り、徳助社長宅の近くには先代が建設した頴川美術館が立地していた。一族が経営する木材会社である大一商店などグループ企業が大株主であり、「大一商店グループの金融部門」と揶揄されてきた。また行員の採用でも関係者の身内や縁故採用者が多かった。 1985年、幸福銀が策定した第4次長期計画では、営業推進や融資審査部門を一体化した「リレーションシップ・マネジメント制度」の導入をうたい、翌年には営業推進部を設置した。同部が新規開拓した企業は、不動産、建設、金融業種が大半を占め、1993年3月末に廃止されるまで管掌する債権は増え続けた。また、東京地区の営業店を運用店舗として位置付け、バブル崩壊が忍び寄る中でも融資を増やし続けた。さらに1985年設立した系列のリース会社である幸福リースも不動産関連融資を積極化させ、ノンバンク企業は大蔵省が実施した不動産融資に対する総量規制の対象外であったため、銀行自体に成り代わり不動産融資を伸ばし続けた。 1992年には徳助社長が経営が痛み始めた幸福銀を立て直そうと、組織改正のほか株式公開を思案し、経営が復調した段階で徳昭専務に社長を任せるつもりであったとされるが、改革案は勉二副社長の反対で潰えたとされる。その後、幸福銀は証券会社に株式上場を勧められても頑なに拒み、経営不安が噂された頃には、徳助社長はマスコミの取材も無視を決め込んだ。
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