史料に見る道三の来歴
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北条早雲らと並ぶ下克上大名の典型であり、名もない境遇から僧侶、油商人を経てついに戦国大名(国盗り)にまで成り上がった斎藤道三の人物像は、江戸寛永年間成立と見られる史書『美濃国諸旧記』などにより形成され、坂口安吾・海音寺潮五郎・司馬遼太郎らの歴史小説で有名になっていた。しかし、1965年 - 1973年に発行された『岐阜県史』編纂の過程で大きく人物像は転換した。編纂において永禄3年(1560年)7月付けの「六角承禎書写」が発見された。この文書は近江守護六角義賢(承禎)が家臣である平井氏・蒲生氏らに宛てたもので、前欠であるが次の内容を持つ。 斎藤治部(義龍)祖父の新左衛門尉は、京都妙覚寺の僧侶であった。 新左衛門尉は西村と名乗り、美濃へ来て長井弥二郎に仕えた。 新左衛門尉は次第に頭角を現し、長井の名字を称するようになった。 義龍父の左近大夫(道三)の代になると、惣領を討ち殺し、諸職を奪い取って、斎藤の名字を名乗った。 道三と義龍は義絶し、義龍は父の首を取った。 同文書の発見により、1973年4月の「斎藤道三展」の説明書で、船戸政一と清水進が、道三親子二代説を発表し、翌年には松田亮が『斎藤道三文書之研究』を著して、道三の父新左衛門尉が長井豊後守利隆であるとした。従来、道三一代のものと見られていた美濃の国盗りは道三一代のものではなく、その父の長井新左衛門尉(別名:法蓮房・松波庄五郎・松波庄九郎・西村勘九郎正利)との父子2代にわたるものであることが明らかとなった。また父の新左衛門尉と見られる名が古文書からも検出されており、大永6年(1526年)6月付け「東大寺定使下向注文」(『筒井寛聖氏所蔵文書』所収)および大永8年2月19日付「幕府奉行人奉書案」(『秋田藩採集古文書』所収)に「長井新左衛門尉」の名が見えている。一方、道三の史料上の初出は天文2年(1533年)6月付け文書に見える「藤原規秀」であり、同年11月26日付の長井景弘・長井規秀連署状にもその名が見えるが、真偽の程は不詳である。
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