こそべ‐やき【古曽▽部焼】
古曽部焼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/01 16:30 UTC 版)
古曽部焼(こそべやき)は、江戸時代後期から大正時代にかけて、摂津国嶋上郡古曾部村(現大阪府高槻市古曽部町)の五十嵐家の古曽部窯で生産された陶器。近年、五十嵐家五代の当主たちによる明治末期までの古曽部焼と、大正年間、「窯元も含む(古曽部)村の有志」が京都五条坂の陶工河合磊三を招き、河合の成型した器を古曽部窯にて焼成した磊三古曽部(らいぞうこそべ)(復興古曽部)とに区分されている[1][2]。さらに昭和後期〜平成期の「新古曽部」の作品[3](昭和後期に寒川義崇・七里寿弥ら現代の陶芸家が高槻市内の各地で開窯した工房で「古曽部焼」の名称を用いて製造した作品)を含める場合もある[注釈 1]。
古曽部焼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 14:48 UTC 版)
江戸期から大正期にいたる古曽部焼は、五十嵐家以外に窯も陶工もなく、「古曽部」の名称は、他の焼き物のような陶工集団や窯の所在地をいうのではなく、五十嵐窯の屋号のような役割を果たしていた。 古曽部焼窯元の五十嵐家は、旧別所村(現別所本町)との境に近い平野部と丘陵部の境界に居をかまえ(現古曽部三丁目)、登り窯は、五十嵐邸の裏手から東北方にかけての丘陵部に築かれ、五代窯元五十嵐信平(本名:栄次郎)の大正末年(1926年)まで作陶がつづけられた。登り窯の本体は、昭和11年(1936年)までは作陶可能な状態で維持され、昭和二十年代( ~1954年)まで存在していた。五十嵐邸の門前に、「古曽部竈跡」の石碑や、同市教育委員会による「古曽部窯跡」の案内板が設置されている。 昭和後期に入り、寒川義崇によって1978年に新たに開窯された「茶陶 古曽部焼(義崇窯)」は、川久保の地(旧磐手村北部、高槻市の東北部を占める大字)で開設されている。
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