古代の稲作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 01:35 UTC 版)
現在、確認されている最古の水田跡は今から約2500~2600年前の縄文時代晩期中頃の佐賀県の菜畑遺跡で、これは干潟後背の海水の入り込まない谷間地の中央部に幅1.5~2.0mの水路を掘り、この両側に土盛りの畦によって区画された小規模(10~20平方メートル)のものであった。農耕具としては石庖丁、扁平片刃石斧、蛤刃石斧、磨製石鏃などが出土している。同時代頃の宮崎県の坂本遺跡からも水田跡が発掘され、九州北部に伝わった水田稲作が大きな時間をあけずに九州南部まで伝わったことを示している。 本州最北端の青森県の砂沢遺跡から水田遺構が発見されたことにより、弥生時代の前期には稲作は本州全土に伝播したと考えられている。弥生時代の中期には種籾を直接本田に撒く直播栽培からイネの苗を植える田植えへ変化し、北部九州地域では農耕具も石や青銅器から鉄製に切り替わり、稲の生産性を大きく向上させた。古墳時代には鉄器が日本全土へ広く普及すると共に土木技術も発達し、茨田堤などの灌漑用のため池が築造された。弥生時代から古墳時代における日本の水田形態は、長さ2・3メートルの畦畔に囲まれ、一面の面積が最小5平方メートル程度の小区画水田と呼ばれるものが主流で、それらが数百~数千の単位で集合して数万平方メートルの水田地帯を形成するものだった。 律令体制導入以降の朝廷は、水田を条里制によって区画化し、国民に一定面積の水田を口分田として割りあて、収穫を納税させる班田収授制を652年に実施した。以後、租税を米の現物で納める方法は明治時代の地租改正にいたるまで日本の租税の基軸となった。稲作儀礼も朝廷による「新嘗祭」「大嘗祭」などが平安時代には整えられ、民間でも田楽などが行われるようになった。大分県の田染荘は平安時代の水田機構を現在も残す集落である。
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