古代の秋目と鑑真の上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 02:50 UTC 版)
「坊津町秋目」の記事における「古代の秋目と鑑真の上陸」の解説
古代の秋目は「秋妻」と書かれており、奈良時代から平安時代に見える地名で薩摩国阿多郡のうちであった。 唐の僧侶であり、渡来後律宗の開祖となった鑑真の渡来の顛末について淡海三船が779年に成立させた書である「唐大和上東征伝」には秋目(秋妻屋浦)に鑑真が漂着したことついて記載されている。同書の天平勝宝5年(753年)についての記述に、鑑真らが乗った第二船について「廿日、牛時、第二舟着薩摩国郡秋妻屋浦」と記載されており、その前後の記述によると12月18日(旧暦)に益救島(現在の屋久島)から太宰府を目指して出航したが、同月の20日(旧暦)に秋目浦(秋妻屋浦)に上陸(漂着)したとされている。「今昔物語集」第11巻にも鑑真が秋目浦に上陸した顛末が記載されている。秋目を出発した鑑真は大宰府を経て翌年の2月4日(旧暦)に奈良に到着したとされる。 秋目浦を含めた坊津の港は日本三津の一つと呼ばれ、『坊津町郷土誌』によると古代より日本の南に位置する唐や琉球からの南島路の玄関口となっており、天平文化が坊津を経て流入したとして「坊津は天平文化の入口」であったといえると記している。
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