古代の町屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 05:51 UTC 版)
平安京では次第に人が集まり都市人口の増加が進んだが、移住者のための宅地がなかった。既存の宅地と道路の境界には、水路を含めれば一番狭い小路でも6尺(約1.8メートル)の幅があったため、塀に寄りかかる形で小屋掛けすることで、道路から全く距離を置かずぎりぎりに建つ住宅が登場した。 また、官設の市以外の商業空間の成立がその普及に拍車をかけた。平安京では、当初商業は西市・東市のみ認められていたが、11世紀初頭には「町座」と呼ぶ商業形態が認められ、市以外の場所でも商売を営むことができるようになった。商売をする上では、客の目を引くようできるだけ道と近い方が有利である。こうして、道路境界に面して家を建てる形式が浸透していった。 平安時代末期の町屋の構造は、『年中行事絵巻』で確認できる。間口2間、奥行き2間で、奥行き方向の前と奥の半間が庇(下屋)になっており、梁間1間となる。屋根は板を吹いた上に丸太材で押さえた素朴な作り方である。柱は地面に直接埋める掘っ立て、表通りに面した壁は腰部分を網代でつくり、その上の高窓には半蔀を設けていた。入口は内開き戸で、のれんが掛かる。入口のところの袖壁の上は竹を縦横に組んだ格子窓であった。そこを入ったところが通り土間である。高窓の内側は床上で、通り土間とは舞良戸で仕切られている。 『信貴山縁起』には地方の町屋が描かれている。町屋のつくりは平安京とほぼ同じだが、住宅が高密に隣接することはなく町屋の間に菜園が設けられていた。 平安京の町屋(『年中行事絵巻』) 地方の町屋(『信貴山縁起』)
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