赤米との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/18 15:08 UTC 版)
1965年(昭和40年)、平城京跡の排水溝から出土した木簡に「丹後国竹野郡芋野郷 部古与曾赤春米5斗」と記されていたことから、丹後地方で750年頃には都に米を納めるほど稲作がさかんであったことが明らかとなる。芋野は、芦田の郷里・和田野の隣区である。この「赤春米」とはどのような米であるのか、興味をもった芦田は、約5年の調査を経て岡山県総社市の国司神社で神事で献上する用として細々と栽培されていた籾種を入手し、これをもとに1981年(昭和56年)から古代米・赤米の試験栽培を始める。芦田に農業の経験は全くなかったが、自宅の庭先で6株の赤米を栽培するほか、京都府立峰山高等学校弥栄分校農業科に協力を頼み、分校の田地3.3平方メートルで赤米の栽培を行った。 翌1982年(昭和57年)には、試験栽培初年に収穫した籾をすべて使い、自宅近くの1.5アールで赤米を栽培する。古代の稲作に倣い、化学肥料や農薬を一切使用しなかったため、稲作管理には多くの労力を要したものの、1本あたり100から120粒と芦田の予想を上回る収穫を得たという。芦田はその米で、町公民館の主催する文化祭で赤米ご飯の試食会を開催。赤米の禾(のぎ)の美しさに惹かれた芦田は、その後も栽培を続け、求める人には種籾や赤米を惜しみなく提供し、全国に赤米愛好家が誕生するに至った。弥栄町和田野の芦田のもとには、全国から農作業を手伝う人が集まるようになり、のちに「古与曾」と名付けられる芦田の建てた家は、田植えや稲刈り後の慰労の場となり、やがて地域活動の拠点となっていく。
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