即位、ブルサの征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 06:43 UTC 版)
オルハンは即位以前の経緯がはっきりせず、母親は「オメル・ベイ」という人物の娘だが、このオメル・ベイという人物自体が経歴不詳である。即位の経緯も「後継者の座をアラエッティンという兄弟と譲り合った末にオルハンが即位した(アラエッティンは小村の領主として静かに生きる道を選んだ)」と「オスマンの死後後継者争いが起きて王子たちが争っていたと仄めかす話」という正反対の内容(後者は東ローマ帝国の年代記より)が伝わっており、オスマン帝国側のオスマンの崩御後すぐに作られた公文書にも王子の名が列挙される中アラエッティンの名が無いことから、小笠原弘幸などは「アラエッティンとの兄弟愛溢れる逸話は、オスマン没後の王子たちの争いを糊塗するために創作された可能性がある。」としている。 即位年については、1324年と1326年の2説が有力であり、即位時期もオスマン崩御後に帝位を継いだ説のほか、オスマンの存命中にすでに即位していたとする説も存在する。 オスマンが率いていた集団は数百人規模の戦士集団で、その指導者はあくまでも仲間内の第一人者という立場であり、指導者の選出には同朋である戦士たちの推戴が必要とされていた。オルハンは父の僚友たちの推戴によって即位し、父の遺志であるブルサ攻略を継続した。 1317年より父オスマンから軍の指揮権を委ねられ、オスマン1世が行ったブルサ包囲にあたっての障害となる拠点を制圧、オルハネリ(英語版)の城砦を破壊した。 1326年4月6日にブルサの支配者を降して同地を征服、首都に定めてオスマン1世を埋葬した。遷都後は配下をコジャエリ方面に派兵、1331年3月2日にニカイア(現・イズニク)、1337年にニコメディア(現・イズミット)を征服して勢力を拡大する。 1329年にオスマンのニカイア包囲を解くため、東ローマ帝国より2000の正規兵が派遣されるが、ペレカノンの戦い(英語版)で皇帝アンドロニコス3世パレオロゴス率いる東ローマ軍を撃破し、この勝利はオスマン1世から継承した軍団を辺境の軍事集団から一侯国に飛躍させるきっかけとなった。ニカイアの攻撃は苛烈なものであり、ニカイア攻略直後にオルハンと面会したイブン・バットゥータは『大旅行記』で街が荒廃し、人口が流出して減少した様子を伝えた。ニカイアの施設でかろうじて破壊を免れた二重の城壁は、往時の姿を今に留めている。 1335年から1345年の間にバルケスィルのカレスィ侯国(英語版)を併合、カレスィ君侯アジランの死後に起きた二人の王子の争いに干渉した結果と言われるこの併合によって軽装艦船を有するカレスィの海軍をそのまま手に入れ、バルカン半島進出の手段を獲得した。
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