印刷機産業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 01:51 UTC 版)
産業革命の黎明期ではグーテンベルク型の手動印刷機の構造は基本的に変わっていなかったが、その構造における新たな材質が、他の革新もあるなか印刷効率を徐々に改善していった。1800年までに、スタンホープ伯爵(第3代)は完全に鋳鉄で印刷機を作り、必要な力を90%に減らして印刷面積を2倍にした。1時間あたり480ページという容量で、スタンホープ印刷機は旧型印刷機の出力の2倍になった。とはいえ、伝統的な印刷方法であるがゆえの限界が明らかになってきた。 2つのアイデアが印刷機の設計を根本的に変えた。1つ目は機械を動かすための蒸気機関の使用、2つ目はシリンダー(圧胴)の回転運動による平らな台の置き換えである。両要素は1802年から1818年の間に、ドイツの印刷工フリードリヒ・ケーニヒによって考案された一連の印刷機設計において初めてうまく実装された。1804年にロンドンに引っ越すと、ケーニヒはすぐにトーマス・ベンスリーに会い、自身の事業のための財政支援を1807年に確保した 。1810年に特許を取得して、ケーニヒは「ハンドプレスによく似ていて蒸気機関に接続された」蒸気印刷機を設計した。このモデルの最初の試作は1811年4月に行われた。彼はドイツ人工学技士アンドレアス・フリードリッヒ・バウアーの支援を受けて機械を製造した。 1814年にケーニヒとバウアーは、1時間当たり1100部を印刷可能な最初の2つのモデルをロンドンでタイムズ紙に販売した。それで印刷された最初の版は1814年11月28日のものである。彼らは続けてシートの両面に一度に印刷可能な初期モデルを完成させた。これは新聞を大衆に利用可能にする長いプロセスの始まりとなり(徐々に識字率を広めるのにも役立った)、1820年代から製本の性質が変わって、タイトルやその他メタデータのより大きな標準化がさらに進んだ。彼らの会社Koenig&Bauer AGは、現代でもなお世界最大の印刷機メーカーのひとつである。
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