南西部準州時代
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「南西部領土 (アメリカ合衆国)」の記事における「南西部準州時代」の解説
ノースカロライナは1789年にアメリカ合衆国憲法を批准した。合衆国に加わる条件の一つとして、ノースカロライナ州議会で可決された法案に従い、スモーキー山脈から西の地域に対する領有権主張を取り下げた。この土地の処置は1790年2月25日に第1アメリカ合衆国議会に提出され、4月2日に承認された。5月26日、この領土は正式に「オハイオ川の南の領土」として自治法(An Act for the Government of the Territory of the United States, South of the River Ohio)が制定(自治化)された。ジョージ・ワシントン大統領はウィリアム・ブラウントを準州の知事に指名し、ロッキー・マウントがその最初の州都となった。1791年遅く、ブラウントはジョージ・ラウルストンに働きかけて、ロジャースビルでテネシーで初めての新聞を発行させた。 一方ブラウントは準州の州都をホワイツ・フォートに移し、ノックスビルと改称した。新しい準州では土地の投機が活況を示し、著名な政治家の多くも関わった。白人入植者の拡大はインディアンの土地の侵食を避けがたくしていたが、これは政府が禁じていることだった。1792年、チェロキー族とクリーク族の戦士がカンバーランドの開拓地を襲った。この地域の開拓者は民兵隊を組織して対抗し、1794年のニックジャック遠征隊ではチカマウガ集落のいくつかを襲撃し壊滅させた。クリーク族に対する同じような戦闘の脅威が、インディアンとの再接近の時代を齎した。 アメリカ議会が南西部準州を自治化したとき、奴隷制度を禁じる条項を除いて、1787年の北西部条例の条項をすべて、必要な変更を加えたうえで南西部準州にも適用した。特に第12章は準州立法府が構成されれば、アメリカ合衆国議会に送る投票権を持たない代表を選出できることとしていた。1794年9月3日、準州議会は最初の代表としてジェイムズ・ホワイトを選出しアメリカ議会に送った。このことは当初思っていたことよりも議論を醸すことになった。北西部条例は連合規約下の一院制時代の連合会議で可決されたものであり、この代表が下院に対する代表か、上院に対する代表か、あるいは両院に対するものなのかが不明であった。さらにそのような代表の合憲性に疑いが持たれた。それにも拘わらず、11月18日、ホワイトの信任状が下院に提出された1週間後、2日間の議論の後で、ホワイトは下院に対する代表となった。ホワイトは南西部準州のただ一人の代表となった。 1795年、国勢調査により、この準州には州に昇格できるだけの人口がいることが分かり、住民投票の結果は3対1の多数で州昇格を選ぶことになった。ブラウント知事は憲法議会を開催し、代議員が州憲法を起草した。有権者はセビアを知事に選出し、議会はブラウントとウィリアム・コックをアメリカ合衆国上院議員に、アンドリュー・ジャクソンを下院議員に選出した。 南西部準州は合衆国の準州から初めて州に昇格することになったので、その手続きについて幾つかの論点が発生した。それにも拘わらず、テネシー州は1796年6月1日に合衆国第16番目の州として昇格し、南西部準州は消滅した。
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