勧告文の検討
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 05:16 UTC 版)
三人委員会は実際の降伏勧告文を策定する小委員会を結成させ、そのチームに検討を行わせる事とした。この委員会はマックロイ、海軍長官特別補佐官のコレア大佐、国務次官補特別補佐官のユジーン・ドゥーマン、国務省極東課長ジョセフ・ウィリアム・バランタインらによって構成されていた。トルーマンはポツダム会議のために7月6日にはアメリカを離れるため、委員会はそれまでに宣言案を策定する必要があった。6月27日に最初の委員会が開かれた。最初の会議にはコレアとドゥーマンは欠席したため、バランタインを除いたメンバーはすべて陸軍関係者であった。討議においてはスティムソン案を原案とすることとなっており、マックロイが実質的な委員会の主宰者となった。しかしバランタインが国務省案の降伏勧告案を提議したため、議論は難航することとなった。国務省案は以前グルーが大統領に提出していたドゥーマン案を元としており、天皇制の存続については極めてぼやかした表現となっていた。このため国務省案は会議によって退けられ、再びスティムソン案を中心として討議されることとなった。この日の会議で陸軍作戦部(OPD)のファーヒー大佐が宣言の発出者に蔣介石を加えるべきであることや、連合国と日本が交渉を行うべきでないことなどの意見を述べた。 翌6月28日の会議でドゥーマンは天皇制保障の文言を入れるべきでないと主張した。グルーら国務省内の知日派は天皇制保障が不可欠であると考えていたが、これらの意見は対日融和的であると批判され、国務省内でも世論の反発を怖れ、彼ら知日派は孤立する傾向があった。ドゥーマンはこの降伏勧告を日本が受け入れる可能性は極めて低いと考えており、文言に対するアメリカ世論の反発を防ごうと考えていた。1945年6月のギャラップ調査によると33%が昭和天皇の処刑を求め、17%が裁判を、11%が生涯における拘禁、9%が国外追放するべきであると回答するなど、天皇に対するアメリカ世論は極めて厳しかった。 スティムソンら陸軍は天皇制保障が必要不可欠であると考えており、議論は紛糾した。しかし陸軍が議論の主導権を握り、OPDのチャールズ・H・ボーンスティール3世が、国務省案を一部参考にしながらもスティムソン案を基本的な原案とする箇条書きの草案を作成することとなった。ボーンスティールは周囲からの助言も受けて6月29日までに草案を策定した。6月29日の早朝にボーンスティール草案がマックロイの元に届けられた。この日の委員会でボーンスティール草案が採択されたが、国務省はこの草案は国務省で再検討されなければならないと条件をつけた。またOPDは同時期に宣言発表のタイミングとしてソ連の対日参戦直後が最も効果的であるという勧告を行っている。マックロイはスティムソンにボーンスティール草案を送付し、6月30日からスティムソンとともに草案の修正作業を行った。スティムソンは「かなりの修正をした」と回顧録に残している。7月2日、スティムソンはこの修正草案と6月26日の「対日計画案」一部修正したものをトルーマンに提出した。この修正草案は13条となっており、「現皇統による立憲君主制を排除しない」という文言も入ったものであり、第二項で「日本国が無条件降伏するまで」という文言はあるものの、日本軍隊の無条件降伏を求めたものであった。
※この「勧告文の検討」の解説は、「ポツダム宣言」の解説の一部です。
「勧告文の検討」を含む「ポツダム宣言」の記事については、「ポツダム宣言」の概要を参照ください。
- 勧告文の検討のページへのリンク