勧学寮の増築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 05:30 UTC 版)
先年より了翁が願い出ていた件については、新しく輪王寺宮となった守全法親王(のち天真法親王を名乗る)と東叡山両知事の了解を得、幕府の寺社奉行秋元喬知の取り計いもあって新しく東叡山領となった地の一部を賜わった。 貞享元年(1684年)、勧学寮が増築された。内外の典籍3万余巻を備えることとなった文庫と経堂は新しい勧学寮に移され、経蔵・文庫・講堂・方丈と、その周囲には北寮、南寮、西寮、東寮の四寮が建設された。1尺5寸の釈迦像を安置して本尊とした。。このとき、かつての東叡山所化寮が勧学寮に合同されることになった件については、一部に根強い反対があり、了翁の毒殺を企てる事件も数回発生したという。 勧学寮の寮舎は200間もあり、主要な建物の四方を囲んで建てられていたので俗に「百軒長屋」とも呼ばれていた。勧学寮では毎日、仏教、儒教、道教が講じられた。勧学寮の受講者600名余り、一般利用者400名余りを数え、盛況を呈した。貞享元年には了翁の功績を伝えるため、寛永寺境内に等身大の銅像が建立された。このとき了翁は55歳となっていた。こののち勧学寮の僧徒は盛時には900名を越え、運営のための基金として常に金1,200両を備えていたとされる。
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