加藤の戦死
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1942年5月22日、第64戦隊の駐屯するアキャブ飛行場にブレニム1機(第60飛行隊ハガード准尉機)が来襲し爆撃。一式戦5機が迎撃に出撃するも、後上方銃座(射手マクラッキー軍曹)の巧みな射撃により2機が被弾し途中帰還、さらに1機が最初の近接降下攻撃からの引起し時に機体腹部(燃料タンク部)に集中射を浴び発火。この機体こそが戦隊長加藤建夫中佐機であり、帰還不可能と察した加藤機は左に反転しベンガル湾の海面に突入し自爆した。戦死した加藤中佐は「ソノ武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル操縦技能ニ負フモノニシテ其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タリ」と評される南方軍総司令官寺内寿一元帥大将名の個人感状を拝受、さらに帝国陸軍初となる二階級特進し陸軍少将、また功二級金鵄勲章を受勲し「軍神」となった。 なお丸尾大尉・大谷大尉の両中隊長、さらに加藤の後任たる八木戦隊長を失った第64戦隊において、1942年4月に第3中隊長に着任していた黒江保彦大尉は先任将校として指揮統率。自身も陸軍航空部隊指折りのエースである黒江は、イギリス空軍の高速機モスキートを撃墜するなど活躍、1944年(昭和19年)1月半ばにテスト・パイロットとして再度陸軍航空審査部飛行実験部に転任するまで第64戦隊を支えた。 ビルマ戦線では雨季の期間中は航空作戦が不能ないし低調になるため、雨季を除く大戦中期たる1942年9月9日から1943年5月29日にかけて第64戦隊・第50戦隊の一式戦は連合軍機62機撃墜を記録、対する一式戦の空戦損害は36機喪失であった。撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機44機・爆撃機等17機・偵察機1機に上り、戦闘機の詳細はハリケーン36機・モホーク5機・P-40 3機、爆撃機等はB-24 5機・ブレニム5機・B-25 3機・ウェリントン2機・ハドソン1機・ボーファイター1機、偵察機はF-4 1機となる。一式戦喪失36機のうち連合軍戦闘機によって撃墜されたものは24機で、残機は爆撃機の防御砲火や対空砲火などによるものである。
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