加藤と小泉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 16:50 UTC 版)
「YKK (政治同盟)」の記事における「加藤と小泉」の解説
1997年に当時の小泉純一郎厚生大臣が厚生省幹部や参議院厚生委員会理事と食事を取っていた事件において円滑な参議院審議を求める参議院理事のスケジュール管理の立場から事前通告を受けていないとして村上正邦自民党参議院幹事長が反発。村上が参議院厚生委員長に対して議事権発動を促し、厚生省幹部の出席差し止めにした。加藤紘一は党執行部をまとめる立場からこの事態を打開するために村上の参議院幹事長更迭を視野に入れていたが、村上は参議院の独自性を盾に抵抗。また保守色が強かった村上更迭という強行案には、党内連立反対派(保保連合派)らの反発を刺激を党執行部が恐れたため、加藤は幹事長としてYKKの絆から小泉厚相に対して村上参院幹事長に全面謝罪させることを提案。小泉が村上に謝罪したことで丸く納まった。 2000年11月21日に起こった政局、「加藤の乱」に際しては、山崎が加藤と行動を共にして不信任決議を欠席したが、小泉は森首相を支持して不信任案に反対票を投じた(加藤に決起の相談を持ちかけられた際、小泉は「俺ならとっくにやっている」と答える。加藤はこれを小泉の支持を得たと思い込んだ節がある)。小泉は森派の会長職に就いていたという事情があったにせよ、YKKが必ずしも一枚岩ではないことを露呈した出来事だった。加藤の乱後の同年・12月11日に開催された、松島みどり・衆議院議員のパーティーでの小泉の発言「YKKは友情と打算の二重構造だ」が注目を集めた(この時、加藤・山崎は同列していたが、TVに映し出された加藤の苦渋の表情も注目された)。 加藤は、小泉が2001年の総裁選に3度目の出馬をした際は小泉を支持したものの、小泉内閣には入閣しなかった(外相の要請を断ったとも一部では伝えられた)。当初は基本的に小泉支持を表明していたが、不支持とは言明しないものの、徐々に小泉政権を批判する言動が目立つようになった。 加藤は2005年1月にYKKは実質的に終焉していると述べている。加藤と小泉との間で、YKKはもうやめようという話が出た際に、終わったとコメントすれば終わるということになった旨、加藤が後日のTV番組で回想している。
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