加藤の乱前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 16:50 UTC 版)
「YKK (政治同盟)」の記事における「加藤の乱前後」の解説
YKKの人間関係の軸はあくまでも加藤・山崎であり、二人のつながりは初当選以来深い。 加藤の乱以前は、橋本政権下で加藤が自民党幹事長、山崎が自民党政務調査会長に就任して、名実共に総裁候補として名乗りを上げ、YKKで首相に近いのはこの2人との認識が大勢を占めていた。1998年には加藤が派閥会長に就任、翌1999年には山崎が独自の派閥を立ち上げ、同年、二人揃って小渕恵三に対抗すべく自民党総裁選に出馬し、「ポスト小渕」の筆頭格に躍り出た。一方、小泉は1995年、1998年の二度に亘って総裁選に出馬しているが、いずれも所属派閥の三塚派の意向による負け戦で、勝敗は度外視したものであった。また、同一派閥には兄貴分の森がいたことから、当時、小泉が総理・総裁候補と目される論評はあまり見受けられなかった。 加藤の乱では、小泉は加藤の不信任案賛成の情報を積極的に流し、主流派として鎮圧側に回った。これを境に、徐々に小泉と加藤が疎遠になり、小泉が総裁就任後は山崎と小泉の蜜月時代になった。一方で山崎と加藤の関係も引き続き続いており、その後、小泉と山崎が距離を置き始め、加藤と山崎が共同歩調をとる姿が目立った。2009年の総選挙において小泉は引退し、山崎が落選。政界における動きは停止している。さらに2012年の第46回衆議院議員総選挙で加藤は落選し、4年後に死去。山崎は派閥を石原伸晃に譲り、事実上終焉した。
※この「加藤の乱前後」の解説は、「YKK (政治同盟)」の解説の一部です。
「加藤の乱前後」を含む「YKK (政治同盟)」の記事については、「YKK (政治同盟)」の概要を参照ください。
- 加藤の乱前後のページへのリンク