創業から商業捕鯨禁止まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/30 15:04 UTC 版)
1967年創業。女将の大西睦子が、母親が営業していた料亭を再興したい一心で「ふぐ料理店」を始めたのが徳家の始まりである。大西は料亭の三女として大阪市で生まれ育ち、大阪府立今宮高等学校中退後、結婚を機に千日前に出店した。大西は24歳であった。夫は黒門市場の魚屋の次男だった。店は7坪ほどの小さなものであった。 しかし「ふぐ料理店」での来客は芳しくなく、母親より鯨肉専門店への転換を勧められる。元々、大阪は太平洋戦争直後まで、日本の鯨肉の7割を消費していた土地柄で、大西自身も幼少時は、鯨肉を使ったすき焼きや鍋を食べていた。当時の鯨肉は安価で、一般市民にも親しまれた食材であったが、鯨肉を専門に扱う料理店は大阪にも少なく、「おでん屋」でコロ、サエズリが重宝されている程度だったためである。鯨肉は甘辛い味付けがなされることが多かったが、酒に合うように薄味スープを使って考案した鯨肉鍋は「ハリハリ鍋」と呼ばれ名物となった。スープはかつお節の効いた特製だしで、そこにたっぷりの水菜と鯨の赤身を入れて炊いた。鯨肉は毎朝市場で仕入れ、霜降りの多い「尾の身」だけを使用した。「尾の身」とは、鯨の体の立羽(背びれ)附近から尾までの肉で、鯨の肉で最も美味しく最も高価とされる部分である。鯨の赤身は、スープの染み込みを良くするために、客に提供する前に片栗粉をまぶした後に一度湯がいて下ごしらえした。水菜は「ハリハリ鍋」の語源にもなったように、煮えすぎて歯ごたえを損なわないように少量ずつ鍋に投入するように客に指導していた。まだ当時はミナミの周辺でも農業が行われており、湊町の向こうには水菜を植えた畑が広がっていた。スープも改良を重ね、昆布とカツオブシで出汁をとり、薄口醤油で味を調える。かつお節も質の良いものを厳選していた。鍋に加える唐辛子にはメキシコ産のハラペーニョを使った。ハラペーニョは隠し味として使われ、鯨肉の臭みを消して、後味を爽やかにする効果があった。具は、鯨肉と水菜、豆腐、シイタケ、餅、おばコロ(貴重なヒレのコロ)だけであった。食べた後はうどんやご飯を入れて雑煮にする客も多かった。うどんも汁の味が染みやすいように細めのうどんを選んだ。創業時約20席だった店は、手狭になり約80席になった。「くじら」の「9」に掛けた毎月9日は、近所の寺院で鯨供養を開催し続けた。
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