初代B&B
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 01:30 UTC 版)
「B&B (お笑いコンビ)」の記事における「初代B&B」の解説
1971年、島田洋介・今喜多代に入門した島田洋七が、1972年、桂三枝に紹介された団順一(現在の放送作家・萩原芳樹。以下萩原)と初代B&Bを結成、洋七は島田洋一名で漫才師としてデビューした(以下洋七)。コンビ名は師匠である島田洋介から「洋一・順一」と付けられたが、洋七はいかにも漫才師らしい名前がしっくりこず、"今"という最新のネタをテーマに喋る仕事だからこそ、ネーミングも今風にしたいと洋七がバイトしていたディスコの店名を拝借して「B&B」と命名した。今でこそコンビ名をつけるのは当たり前だが、コメディNo.1がその先駆けで、当時はまだ珍しく、師匠からはこっぴどく怒られて、「何の意味があるんや!」と怒鳴られ、苦し紛れに「ボーイ&ボーイの略です」と答えたものが、現在もコンビ名の由来として一部の文献に見られる。 初舞台となった名古屋・大須演芸場のお客は5人だった。当初は萩原がリーダーで、洋七はツッコミ担当。弟子上がりで素人然の洋七に対し、学生時代から横山やすしや桂三枝の薫陶を受け、テレビやラジオのお笑い番組で前説を担当していた萩原が洋七に教え込む形でリードしていた。萩原は、ノンプロ芸人として「ヤングおー!おー!」(MBS制作)の前説を勤めていた頃、洋七からコンビを組みたいと誘われるが、ピン芸人としての自信を付けていたのと洋七の広島訛りが強かったため、まともな掛け合い漫才は出来ないとこれを無視。ヤングジャパンから誘いを受け正式にプロデビューの話が来たところ、番組を共同制作していた吉本興業から前説のクビを言い渡される。つまり、同社と契約することは吉本から圧力がかかり、今後の芸能活動に支障をきたすことになる。やむなく萩原は三枝と相談し、洋七の誘いを受け容れコンビを組むことで、萩原は吉本所属の漫才師になった。ただし、洋七の兄弟子(島田一の介)の年季明けがまだ済んでいなかったため、デビューまで時間がかかった。 後に漫才をそれまでの"8ビート"から"16ビート"に上げたといわれる、洋七のマシンガン漫才のルーツは、萩原に「面白いから見に行こう」と誘われて見た松竹芸能の浮世亭ケンケン・てるてるであった(詳細は後述)。 初舞台から11ヶ月で最優秀話術賞を受賞。当時の芸能雑誌に若手の有望株として東京のマックボンボン(志村けんがいやま淳と組んでいたコントコンビ)とともに紹介されるなど注目されていたが、萩原がそのころトップホットシアターに出演していたはな寛太・いま寛大の舞台を見て自信を喪失して失踪。こうして初代B&Bは消滅した。
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