出走の経緯とは? わかりやすく解説

出走の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 05:09 UTC 版)

ホンダ・RA302」の記事における「出走の経緯」の解説

1968年シーズンホンダF1チームは、前年より引き続きイギリス本拠としていた。中村良夫監督の下、チャンピオンドライバーであるジョン・サーティースによってローラ共同開発したRA301で、総合優勝をも狙え着実な戦い調整続けていた。しかしこれらのマシン開発は、エンジン部分を除きほぼイギリス独自に進められていた(これには市販車開発人員確保のため、藤沢武夫命令日本研究所関与制限されていたことも背景にある)。このためRA302の開発には「イギリス主導開発されたRA301に対し日本独自マシン対抗する側面もあった。中村は後に「宗一郎さんが空冷でF1をやるといったのも、ひとつにはわたしがイギリス独立したみたいな形でチーム運営をしていたことが面白くなかったでしょうね」と語っている。 こうしてチーム実情無関係に成立したRA302は、シーズン中盤の6月29日羽田空港での記者会見経てそのまま華々しく日本飛び立ちロンドン郊外サーティースガレージ送りつけられてきた。チーム7月2日サーティースドライブによりシルバーストンマシンシェイクダウン行なった軽量ボディによる加速性能確実に高く熟成次第改善可能な挙動不安定さはあったが、エンジン温度止まる所の無い上昇によって、出力低下激しオイル漏れヘッドボルト損傷至り久米佐野両名当初からの計画通りオイルクーラー増設し対応しても、レース走行事実上不可能であることがすぐに判明した中村本社要請に従って次戦のフランスGPへは持ち込むものの、このオイル撒き散らす危険なマシンプラクティスのみで引き戻し決勝はRA301に集中することを決めた。しかもフランスGPセカンドカーエントリーは、実際すでに時間切れ却下されていた。ところがチームフランスGP舞台となるルーアン到着してみると、ホンダ・フランスの政治的な動きでRA302がリストされ、ドライバーフランス人ジョー・シュレッサー招聘されていることが判明した中村激怒しサーティース説得正気取り戻したが、チームとして責任持てないとして、新型車の参戦東京からマシン同行して来た、久米始めとするエンジニア達と、ホンダ・フランスの現地部隊委ねられた。

※この「出走の経緯」の解説は、「ホンダ・RA302」の解説の一部です。
「出走の経緯」を含む「ホンダ・RA302」の記事については、「ホンダ・RA302」の概要を参照ください。

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