冬戦争・継続戦争
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「マッティ・アールニオ」の記事における「冬戦争・継続戦争」の解説
第二次世界大戦勃発後、ソ連がフィンランドに侵入して冬戦争が始まると、アールニオは少佐となり第4猟兵大隊(JP 4)の指揮官としてラドガ湖北方に展開した。第4大隊はラウリ・アラン・トルニ少尉が所属していたことでも知られている。フィンランド軍は兵力や物資の不足にも関わらず、機動力と地の利を生かして赤軍を分断した上で雪中に孤立させることに成功したのである。この戦術はモッティ戦術と呼ばれ、アールニオはこれを遂行する為に第4大隊に加えて6個大隊を率いた。作戦後、この戦功に基づきアールニオはモッティ・マッティの渾名を与えられた。継続戦争勃発時、第9猟兵連隊長となる。第9連隊はラドガ・カレリアの奪還に参加した。1941年12月、第56猟兵連隊長。ラップランド戦争の頃には第2猟兵大隊長を務めた。
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冬戦争・継続戦争
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1939年秋、トルニの兵役期間が完了した直後、冬戦争が勃発した。フィンランド国防軍は戦時動員体制に移行し、兵役を終え予備役将兵の一員となったトルニもそのまま軍に残留する事となった。トルニはマルッティ・ヌルメン(フィンランド語版)中佐に率いられた第4猟兵大隊に配属される。同大隊は敵後方への浸透攻撃を任務としており、第13師団の指揮下でラドガ湖北部に展開していた。 1940年1月、ヌルメン中佐が交通事故死する。新たな大隊長にはマッティ・アールニオ少佐が着任した。彼はラドガ湖の前線に移動し、レメッティ(Lemetti)におけるソ連軍師団の包囲殲滅に参加した。この戦いの中で、彼の英雄的な功績は上官たちによってすぐさま認められた。1940年2月からハミナの予備役将校学校に入学し、冬戦争終盤には少尉に昇進している。 冬戦争終結後の1941年、ナチス・ドイツの武装親衛隊ヴィーキング師団にてフィンランド義勇兵大隊(ドイツ語版)の編成が始まる。同年6月6日、トルニも武装親衛隊に入隊し、武装親衛隊少尉として同大隊に所属したものの、7月10日には士官不足を理由にフィンランド国防軍に呼び戻された。 トルニの名を一層知らしめたのは、続いてフィンランドとソ連の間で戦われた継続戦争における彼の功績である。1943年1月、遊撃戦を専門とする2個中隊を第1師団から抽出することが決定され、トルニは第2遊撃戦中隊の指揮官に就任した。この部隊は非公式にトルニ支隊と呼ばれた。遊撃戦中隊は敵の戦線後方に侵入して破壊工作を行う事を目的とした部隊で、その戦果はすぐに両軍で評判となった。トルニ支隊に所属した兵士の一人には、後のフィンランド大統領マウノ・コイヴィストがいた。1944年7月から8月にかけて、トルニ支隊は継続戦争最後の戦いでもあるイロマンツィの戦いに参加した。この戦いの間、コイヴィストはトルニ大尉指揮下の偵察中隊に参加していたという。 トルニ支隊はソビエト連邦軍に重大な損害を与えた為、ソ連軍当局はトルニにおよそ300万フィンランドマルク相当の懸賞金を掛けた。彼はソ連軍当局が懸賞金を掛けた唯一のフィンランド将校であった。1944年7月8日、マンネルヘイム十字章を受賞する。
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