冥界の時間
『今昔物語集』巻7-48 震旦の人、張ノ法義は、ある時、山で不思議な僧に出会い、「俗世で犯した罪を懺悔(さんげ)すべし」と教えられ、湯を浴び僧衣を着て懺悔した。19年後、法義は死んで冥府へ連れて行かれたが、山で会った僧が現れ、閻魔王に「法義は十分に懺悔しているから」とかけあい、7日間の猶予を請い取ってくれた。おかげで法義は蘇生することができた。冥府の7日は、人間界の7年に相当するのだった。
『日本霊異記』上-5 〔第33代〕推古天皇33年(A.D.625)、大部屋栖野古(おほとものやすのこ)が死んで冥界へ行き、聖徳太子に会った(*→〔蘇生者の言葉〕2)。太子は屋栖野古に、「8日後、汝は剣難に遭うだろう」と告げた。これは、8年後の蘇我入鹿の乱〔*この時、聖徳太子の子・山背大兄王は殺された〕のことである。冥界の8日は、人間界の8年に当るのだった〔*実際は蘇我入鹿の乱は18年後の〔第35代〕皇極天皇2年(A.D.643)。「18日」「18年」が本来の形か〕。
*極楽の3日は人間界の3年→〔極楽〕3の『今昔物語集』巻15-19。
『酉陽雑俎』続集巻1-880 冥府の鬼が、李和子から酒を御馳走になった返礼に(*→〔酒〕2b)、「寿命を3年貸しましょう」と言う。しかし、それから3日後に李和子は死んだ。冥府の3年は、人間世界の3日に相当するのであった。
『幽明録』17「閻魔の慈悲」 王某は妻を亡くし、遺児2人を育てていたが、彼もまた死んで冥府へ召されてしまった。閻魔が王某を憐れみ、「遺児の養育のために、特別に3年の寿命を与えよう」と言う。王某が「子供を一人前にするには、3年では足りません」と訴えると、冥官が「冥府の3年は、人間界の30年に当たるのだ」と教える。王某は蘇生し、30年生きて死んだ。
★1d.冥界で「しばしの間」を過ごすうちに、人間界では六年が経過した。
『勝五郎再生記聞』(平田篤胤) 多摩郡中野村の百姓の子・勝五郎は、文政5年(1822)、8歳の時、自分の前世を語り出した。彼は前世で死んでから6年目に現世に再生したのだったが、その間、冥界で白髪黒衣の翁とともにいて、「しばしの間と感ぜられた」と言った。
『往生要集』(源信)巻上・大文第1「厭離穢土」 殺生の罪を犯した者は等活地獄へ堕ちる。人間世界の50年が、四天王天の1日1夜に相当し、四天王天における天人の寿命は5百年である。その天人の5百年を等活地獄の1日1夜として5百年間、等活地獄では苦を受けねばならない〔*→〔地獄〕1aに記すように、地獄は8つに分けられる。等活地獄より下の地獄では、苦を受ける期間はさらに長くなる〕。
『日本霊異記』下-35 〔第50代〕桓武天皇が「この世の人間が地獄へ行って苦を受けた場合、20余年たったら許されるか」と問うと、施皎僧都は「20余年ではまだ苦の受け始めである。人間世界の百年をもって地獄の1日1夜となすのである」と答えた。
★3.冥界の時間経過だけ述べて、人間界の時間経過には言及しないこともある。
『ギリシア哲学者列伝』(ラエルティオス)第8巻第1章「ピュタゴラス」 ピュタゴラスは、「魂は、ある時はこの生き物の中に、ある時はあの生き物の中に繋がれて、『必然の輪』を経巡(へめぐ)るのだ」と言った。彼はまた、1つの書物の中で、「自分はハデス(=冥界)で207年間暮らした後に、この世にもう1度生まれ変わって来た」とも述べている。
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