再渡仏と第二次世界大戦
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1936年、雪洲はフランスの映画会社からモーリス・デコブラ(英語版)原作、マックス・オフュルス監督の『ヨシワラ(フランス語版)』に出演する話を受け、大晦日に家族を残して日本を離れ、ニューヨーク経由でフランスへ渡った。『ヨシワラ』は吉原に身を売った娘と某国海軍士官との悲恋物語で、雪洲は娘に密かな思いを寄せ、なんとかして吉原から救い出そうとする人力車夫を演じ、娘役の田中路子と共演した。この作品を撮り終えると、雪洲は『チート』のフランス版リメイクの『フォルフェテュール(フランス語版)』(1937年)、再び田中路子と共演した『アジアの嵐(フランス語版)』(1938年)に主演した。 1938年にはフランスで独立プロダクションを旗揚げしようと考え、3本のフランス映画出演で得た収入などから資金を集め、翌1939年にパリのシャンゼリゼ通りに「デモフィルム」という会社を設立した。その第1作はマカオの賭博場を舞台にした悲劇ドラマ『マカオ 賭場地獄(フランス語版)』だったが、撮影中の同年9月に第二次世界大戦が開戦し、翌1940年にはナチス・ドイツがフランスに侵攻し、『マカオ』が完成した頃にはフランス全土が占領されていた。在フランス日本国大使館は在仏日本人の退避勧告を出したが、映画製作に懸命だった雪洲はパリにとどまる決断をした。『マカオ』はナチスの映画検閲を受け、反ナチスの俳優エリッヒ・フォン・シュトロハイムが出演していたために上映許可が下りず、何としても映画を公開させたかった雪洲は、シュトロハイムの出演部分をフランスの俳優に代えて撮り直した。1942年にようやく『マカオ』修正版が完成し、検閲を通過したが、それまでにかかった約3年間の雪洲は無収入で、資金が続かず、デモフィルムはたった1本作っただけで閉鎖された。 1942年、雪洲はナチス占領下のパリに在住していた124人の日本人のひとりだった。戦時下で思うような映画作りができず、日本人が映画に出演するチャンスはなおさらない中、雪洲は必ず映画に出れる時が来ると信じて待ち続けた。雪洲は日本人であるためドイツ軍には同盟国の人間として扱われ、また国際的有名人であるがゆえに、芸術家たちをプロパガンダに利用するナチスに目を付けられたが、雪洲はナチス嫌いで、対独協力にも積極的ではなく、ドイツ軍と一緒にいる写真を撮られそうになるとトイレに隠れるなどして警戒した。1944年にパリは連合軍によって解放されたが、フランスが米英両国とともに宣戦布告した日本との戦争はまだ続いていたため、日本人は連合国側からまだ敵国人と見なされていた。雪洲は同じくパリに滞在していた資産家の薩摩治郎八とともに、対独協力の疑いで投獄された在留日本人の救出に奔走し、そのためにアメリカ軍のジープを運転した。同年にはドイツ軍に検閲された『マカオ』をオリジナル版に戻すため、シュトロハイムの出演部分をつなぎ直して再上映した。
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