うちだ‐いつみ【内田五観】
内田五観(うちだいつみ 1805-1882)
内田五観は、はじめ内田恭、宇宙堂と号し、通称を弥太郎といった。
江戸に生まれ、関流の数学を学び、蘭学を高野長英に学び、天文、地理、航海、測量にも通じていた。のちに瑪得瑪弟加(まてまちか:Mathematica)塾を開き(文政5年 1822)、ここから多くの門下生が育った。
天保5年(1834)には、象限儀とバロメータ(占気筒占気筒:液柱式気圧計)で、富士山の高さを測り3475.7mの値を得て、「日本高山直立一覧」を著した。天保9年(1868年)、韮山代官江川英竜の江戸湾防備巡見の際には測量技師として奥村喜三郎とともに随行した。その延長に、蘭学者などに向けた言論弾圧事件、いわゆる蛮社の獄があることはよく知られたことである。
その後江戸幕府の職を辞し、私塾で門弟の指導にあたる。明治に入ると天文暦道御用掛に任じられて(明治3年 1870)、福田理軒らとともに新政府の天文学御用掛となり、編暦作業にたずさわり、太陽暦改暦作業の中心的存在となった。
さらに度量衡の統一に関わることになる。明治政府は、当時既に国際統一制度として認められつつあったメートル法と尺の関係を作ろうとした。1875(明治8)年には、折衷尺を基準とした「度量衡条例」が公布された。1メートルを3.3尺と決めたこの時、長さの参考にされたのが、現在国立科学博物館が所蔵する享保尺、折衷尺、又四郎尺の3本の物差しで、これは内田五観が所蔵していたといわれている。
内田五観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/26 07:58 UTC 版)
内田 五観(うちだ いつみ、文化2年(1805年)3月[1] - 明治15年(1882年)3月29日)は和算家である。通称は恭または弥太郎[2]、号は東瞳・宇宙堂など[2]。
人物
文化12年(1815年)関流宗統五伝の日下誠(号を五瀬(いつせ))の算学塾に入門し[2]、文政5年(1822年)18歳で宗統を譲られる[1]。天保2年(1831年)に蘭学者の高野長英に入門した。天保3年(1832年)『古今算鑑』を著す[2]。天保5年(1834年)富士山の高さを測量し、3475.7mの値を得て、『日本高山直立一覧』を著す。天保10年(1839年)韮山代官の江川英龍のもとで江戸湾の測量を行う[1]。
明治維新後、明治3年(1870年)陰陽寮が廃止されて大学校天文暦道局が設置されると天文暦道御用掛に任じられ[1][2]、太陰暦から太陽暦への改暦に中心的な役割を果たした[1][2]。後に内務省で[1]度量衡の統一に関わる。明治11年(1878年)東京数学会社(現日本数学会)に入会[2]、明治12年(1879年)東京学士会院の創立時の会員となる[1][2]。
脚注
参考
![]() |
この節には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。
|
- 『文明開化の数学と物理』(岩波科学ライブラリー、2008年、蟹江幸博・並木雅俊著)
- 川北朝鄰: 關夫子以降本朝數學の進歩竝に學戰, 東京數學物理學會『本朝數學通俗講演集: 關孝和先生二百年忌記念』, 大日本圖書, 明治41年
内田五觀と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 内田五觀のページへのリンク