共同通信記者時代
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1979年4月、26歳で共同通信社に入社。徳島支局へ赴任、徳島県警の事件記者を担当。徳島大学病院不正事件等の記事を配信していく。新人研修が終わり同期社員が全国に散る前の同年5月25日、港区青山にて妻千春と結婚。1983年6月、京都支局へ異動、京都府警キャップの任に就き、その後、途中数か月間、宗教記者を担当し、再び、京都府政を担当。 1984年4月、大阪支社経済部に異動。証券、繊維、財務、金融業界を担当。 1987年4月、東京本社政治部に異動。首相官邸記者クラブでは第3次中曽根内閣の最後の1年間、竹下内閣の組閣後半年間、中曽根康弘、竹下登両内閣総理大臣の総理番を担当。自民党では三木派・河本派を担当。民社党・社民連、法務省・検察庁、労働省・連合、防衛庁の担当を歴任。 その後「天皇班」に配属され、いわゆる昭和天皇の崩御への「Xデー」に向けた、新元号(平成)の取材活動を行った。防衛庁担当時は、防衛大綱の取材を担当し、その頃から政治記者であったが、単発的に防衛庁から、研修講師を依頼されており、1994年10月、職員上級・中級研修講師を委嘱される。 1995年12月、外務省サブキャップを担当。ペルー日本大使公邸占拠事件発生直後にペルー入りし、半年間ペルーに滞在して事件の一部始終を取材した。1996年12月、共同通信ペルー特派員。この体験が引き金となり、記者を退職することを決意した。1997年12月31日、共同通信社を依願退社。
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