共同運行と統合 1906年–1910年
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「チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道」の記事における「共同運行と統合 1906年–1910年」の解説
ロンドン地下電気鉄道は建設資金を調達し、わずか7年で路線を建設することには成功したが、開業後の収益は成功と呼べるものではなかった。開業後12カ月でハムステッド・チューブは開業前、年間5000万人の乗客を見込んでいたが、実績は2500万人、想定の50パーセントにとどまった。 ロンドン地下電気鉄道傘下の各路線と、新規に電化したディストリクト鉄道の乗客数想定は同様に過大なもので、実績は想定の50パーセント程度にとどまった。 ロンドン地下電気鉄道の路線間や半地表地下鉄との競合に加え、急激に路線を拡大した路面電車が馬車の乗客の大半を奪ったことが計画値に乗客数が達さなかった要因として挙げられている。この問題は多かれ少なかれロンドンの地下鉄会社すべてが抱えるもので、乗客数が想定に満たなかったことから、各路線の収益も開業前の計画値に達さず、ロンドン地下電気鉄道を含む地下鉄会社は借入金の返済、配当の支払いに苦慮するようになっていった。 1907年から、収益構造の改善のため、ロンドン地下電気鉄道、シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道、セントラル・ロンドン鉄道、グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道は統一運賃制度を導入、1908年からはロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道の傘下にあったウォータールー・アンド・シティ鉄道を除く地下鉄各社が統一ブランド名、アンダーグラウンド(英語:The Underground)を使うようになった。 ロンドン地下電気鉄道傘下の3つの地下鉄会社は、法的には別の会社として残っており、独自の経営陣、株主をもち、配当の仕組みも異なっていた。会社組織の重複を排除し、一貫した経営を実現することによる経費節減を狙い、ロンドン地下電気鉄道は1909年11月に傘下3社を1つの会社、ロンドン電気鉄道(London Electric Railway 、LER)に統合する計画案を提出した。この計画案は1910年7月26日に、1910年ロンドン電気鉄道法として国王裁可を得た。
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