共同との抗争
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共同への対抗心を募らせた長谷川は、共同の領域とされた一般ニュース部門への進出を考えるようになる。創業1周年を迎えた際には「両通信社が一定の領域において合理的に競争することこそ、新聞界の健全な発達を期し、優秀な通信人を養成するゆえんだ」と語り、「覚書」の破棄を志向していることを明らかにした。 1949年、共同の労組が行ったストライキについて、GHQ新聞課長インボデン少佐 (Daniel C.Imboden) は「共同、時事両社の間に激しい競争が展開されていたなら、共同通信社が現に当面しているような問題はおこらなかったと信じたい」として、「覚書」には独禁法違反の疑いがあると暗に示唆した。7月14日、長谷川は共同常務理事の松方三郎(松方正義の末子)と直接交渉し、「覚書」の撤廃を実現させた。 時事はこの直後、「特信プレス・サービス(1949年9月)」「時事メール・サービス(同年10月)」を相次いで開始するが、本格的なマスメディア・サービスは控えてきた。しかし、外務省による補助金を巡る一件が長谷川を動かした。 1962年末、外務省が共同に対する対外宣伝費を計上するという話を聞いた長谷川は、「共同に予算を付けるのならば、時事にも付けてほしい」と陳情したが、閣僚らは難色を示した。その理由が「時事は単なる経済専門通信社に過ぎない」と共同の幹部に言われたからであると知った長谷川は憤激し、ついにマスメディア・サービスを本格開始した。海外展開も積極的に進め、共同を上回る数の海外支局を持つまでに至った。 1965年、共同は「アジア・ニュース・センター (Asia News Center, ANC) 」計画を立案、内閣官房長官や朝日、毎日、読売などに対し、総額10億円にのぼる援助を求めた。これは、アジア各国に日本のニュースを英文で配信する計画で、国家に依存した事業構想は、同盟時代を思わせるものであった。しかも、連絡委員会の場でNHK会長前田義徳が語ったように、共同と時事の合併も視野に入れていた。 これに反発した長谷川は、保守系議員らに「左翼偏向している共同に対外報道をまかせると危ない」などと説く一方、同年9月には「太平洋共栄圏特報 (Pacific Commonwealth Information) 」を開始、共同を牽制した。太平洋共栄圏特報は、4年後には「太平洋ニューズ圏 (Pacific News Commonwealth) 」に改組して、アジア11ヶ国の通信社と提携して記事の交換などを行った。各社代表を市政会館に招いた長谷川は、日本の報道の現状について「他産業部門はほとんど世界一流に伍し、少なくとも西洋各国と対等の持ち場を確保しているのに、ニューズ・サービスだけは『植民地』の域を脱することができず、取り残されている」と語り、「ニューズ植民地」からの脱却を高らかに宣言した。 同盟の前例に照らして共同の「一国一通信社論」を批判した長谷川もまた、国家代表通信社の再興を夢見ていた。そして自らが盟主となることを目論んでいたのである。
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