元皇族としてとは? わかりやすく解説

元皇族として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:41 UTC 版)

島津肇子」の記事における「元皇族として」の解説

学齢迎えると、当初森村小学校通学したが、1年生3学期からは東京学芸大学付属小学校通学した学校では「北白川さん/君」と呼ばれていた。また、ピアノ習い友人野球をする活発な少女だった1951年昭和26年)、継宮明仁親王18歳となり、翌1952年昭和26年)に立太子したことに伴い誰が皇太子妃となるか世間大い話題となった当時皇族華族から妃を出すのが社会的にも当然の認識であった立太子前後して肇子は『お妃候補』として再び世間注目を受ける。1951年昭和26年7月29日夕刊読売では『皇太子妃候補令嬢たち』と題し、肇子や旧皇族少女たちを紹介した。さらに1954年昭和29年1月1日読売新聞東宮今年中選考委』でも、肇子の名が報じられた。 学習院女子中等科在校中、後に夫となる島津忠広初めて会う。忠広の妹が学習院在学していた関係での機会だった。肇子は高等科進学後はコーラス部所属し目白学習院大学へも訪れるようになり、二人で一緒に帰る機会もあった。しかし、忠広は「(交際が)できるようになったら、お付き合いましょう」と好意伝えたことはあるが、当時お妃候補としての報道過熱しており、正式に交際するには至らなかった。 学習院女子中等科・高等科経て学習院大学文学部哲学科進学皇太子明仁親王は、1957年昭和32年)夏に知り合った正田美智子好意抱き1958年昭和33年11月27日皇室会議婚約内定した11月29日美智子両親が、北白川家挨拶訪れた際には、房子祥子道久と肇子の兄妹正田親子歓待している。世間ミッチー・ブームに沸く中、12月2日、肇子が玉里島津家島津忠広婚約することが発表された。 忠広とは四年越しの知り合いで、小松輝久媒酌縁談まとまった恋愛結婚とまでは言えないが、兄道久通じて10回以上は互いの家を訪問しあっていたと報じられた。ただし、忠広によれば前述のとおり以前から好意があり、学友である皇太子婚約内定発表前に知って親戚である小松輝久通じ北白川家交際申し込んでいた。また、こうした忠広の気持ち知っていた皇太子が、肇子と忠広が会う機会作ったこともあったという。 翌2月24日東急文化会館結納行い、忠広と正式に婚約したマスコミ取材から解放され祖母房子のきびしい花嫁修業もあるが、学習院大学在籍しつつのびのび婚約期間を過ごした結婚先立ち伊勢の神宮参拝した

※この「元皇族として」の解説は、「島津肇子」の解説の一部です。
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