元皇族として
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学齢を迎えると、当初は森村小学校に通学したが、1年生の3学期からは東京学芸大学付属小学校に通学した。学校では「北白川さん/君」と呼ばれていた。また、ピアノを習い、友人と野球をする活発な少女だった。 1951年(昭和26年)、継宮明仁親王が18歳となり、翌1952年(昭和26年)に立太子したことに伴い、誰が皇太子妃となるか世間で大いに話題となった。当時は皇族・華族から妃を出すのが社会的にも当然の認識であった。立太子に前後して肇子は『お妃候補』として再び世間の注目を受ける。1951年(昭和26年)7月29日の夕刊読売では『皇太子妃候補の令嬢たち』と題し、肇子や旧皇族の少女たちを紹介した。さらに1954年(昭和29年)1月1日の読売新聞『東宮妃今年中に選考委』でも、肇子の名が報じられた。 学習院女子中等科在校中、後に夫となる島津忠広と初めて会う。忠広の妹が学習院に在学していた関係での機会だった。肇子は高等科進学後はコーラス部に所属し、目白の学習院大学へも訪れるようになり、二人で一緒に帰る機会もあった。しかし、忠広は「(交際が)できるようになったら、お付き合いしましょう」と好意を伝えたことはあるが、当時はお妃候補としての報道が過熱しており、正式に交際するには至らなかった。 学習院女子中等科・高等科を経て、学習院大学文学部哲学科へ進学。 皇太子明仁親王は、1957年(昭和32年)夏に知り合った正田美智子に好意を抱き、1958年(昭和33年)11月27日に皇室会議で婚約が内定した。11月29日、美智子と両親が、北白川家を挨拶に訪れた際には、房子、祥子、道久と肇子の兄妹で正田親子を歓待している。世間がミッチー・ブームに沸く中、12月2日、肇子が玉里島津家の島津忠広と婚約することが発表された。 忠広とは四年越しの知り合いで、小松輝久の媒酌で縁談がまとまった。恋愛結婚とまでは言えないが、兄道久を通じて10回以上は互いの家を訪問しあっていたと報じられた。ただし、忠広によれば、前述のとおり以前から好意があり、学友である皇太子の婚約内定を発表前に知って、親戚である小松輝久を通じ、北白川家に交際を申し込んでいた。また、こうした忠広の気持ちを知っていた皇太子が、肇子と忠広が会う機会を作ったこともあったという。 翌2月24日、東急文化会館で結納を行い、忠広と正式に婚約した。マスコミ取材から解放され、祖母房子のきびしい花嫁修業もあるが、学習院大学に在籍しつつのびのびと婚約期間を過ごした。結婚に先立ち、伊勢の神宮を参拝した。
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