信条・人となり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 19:30 UTC 版)
ウィキクォートに竹中正久の発言録があります。 「荒らぶる獅子」の異名を持ち、敵対組織ばかりか身内でも筋が通らぬと思えば強硬に出た。細田利明が自らの組員を吉川勇次の手下に殺され、その遺恨から兄弟分の仁義を拒む事態にまで発展した際には、竹中は細田に与して当時の若頭・梶原清晴の自邸にまで押しかけている。 また、兄・良男が特高警察による拷問が原因で死亡した経験や、戦後の食糧難の際にスイカ泥棒で逮捕された際に警察官から殴る蹴るの暴力を振るわれたこと、父親が死亡していた竹中だけが少年院に送致された経験か、官憲や公権力への敵意をむき出しにしていた。博多事件では、乗り込んだ警察官に対し逮捕状の呈示を要求(逮捕状を請求するには容疑者の氏名や住所が必要となり、竹中自身が名乗らない以上は逮捕状の請求はできなかった)、福岡県警本部刑事課長との押し問答の果て日付が変わった深夜に県警が逮捕を強行せざるを得なかった。四代目継承時の組旗入魂式の際には、兵庫県警の機動隊員が竹中を含む列席者のボディーチェックを行おうとしたところ、「お前らなんやねん、汚いことしくさって、ただじゃおかんぞ!」と隊員に向かって怒声を浴びせた。この場面はマスコミでも放映され、竹中に強面の武闘派という印象を人々に植え付けた。 山一抗争の嚆矢となる一和会分裂の直後に山本広が記者会見を開いた際には、 「 世間さまから見れば、かげ花の極道が、どのつらさげての記者会見や。極道がスター気取りで世間さまに笑われる。あれらが昨日まで同じ釜のメシを食った仲間と思うと、情けないがな。極道は極道の分をわきまえとれというんや。 」 — と、不快感をあらわにした。 出身小学校の同窓会には時折、顔を見せていたが、その際には護衛をつけなかった。関係者や同級生が心配しても、当人は「ええんや」と意に介さなかったという。また普段から「人間、死ぬ時は何したって死ぬ。モチ食うたかて運が悪きゃ死ぬやろ」と護衛をつけることを嫌い、結果的に刺客を防げず、凶弾に倒れることとなった。 金はうなるほど持っていたが、四代目に就任するまで豪邸を建てるなどのことはしなかった。元側近の小林昭によると非常にストイックな性格で贅沢には全く興味を示さず、飲み歩きやゴルフなども好まず、用のない限り極力事務所を離れなかった。また普段の事務所では六法全書を読んだり、将棋をよく指したりして過ごし、普段の食事も子分と全く同じものを食べていた。ただし、ホステスや芸能人に接した際にはチップをはずんだという。また地方に出た際、系列組織が一夜の妻を提供しても手を付けなかった。このことは警察当局も認めていた。 長年、中山きよみという女性と同棲していたが、生涯独身を通した。山口組の顧問弁護士を務めた山之内幸夫によれば「子供がいると、この世にしがらみを残す。極道に女房、子供は不要」との考えを持っていたという。 ヤクザの組長ながら、刺青は入れていなかった。これは実弟の竹中武も同じであった。
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