信号人と告知人(前走り)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 05:32 UTC 版)
「京都電気鉄道」の記事における「信号人と告知人(前走り)」の解説
運行開始当初、路線は全線単線で19箇所に交換所が設けられたが、閉塞の概念がなかったことから時計に沿って電車を走らせていた。しかし時計の精度が低くまた遅延も多ぎみで、単線区間に両方向から来た電車が同時進入して立往生し、どちらが交換所まで戻るかで運転士・乗客による罵倒・取っ組み合いの喧嘩がよく起こった。更に曲線区間で見通しが悪い場合は、正面衝突まで引き起こした。また、道路の幅が狭く電車の開業後も道路を横断する人が絶えなかったことから、開業2か月後には轢死事故が発生した。 そのため電車の安全対策を迫られ、1895年(明治28年)8月26日、京都府によって電気鉄道取締規則が制定された。これに伴い、街角や曲線区間には昼間は旗、夜間は灯火によって単線区間に同時に2列車が進入しないよう監視する信号人を置き、また電車には運転士と車掌のほか、市街地などの危険な区間では電車の前を先行して走り(当時の軌道条例による軌道では最高速度が8マイル毎時・12.9km/hとされていたため、走っても先行が出来た)歩行者に安全を知らせる告知人(前走り)を乗せ、また車両の前後に救助網(通行人を塵取りのように掬いこむための大きい網)を設置することとなった。 告知人は子供が多く登用され、昼は赤旗を、夜は提灯を持って、街角や人の多い場所で電車を降り、先行して電車の通行を告知した。しかし、走行中の電車からの飛び乗り・飛び降りを強いられる上、夜間は全線先走りが義務づけられるなど重労働で、また告知人が電車に轢かれる事故が多発した。世間からの非難も多く、会社としては告知人の廃止を申請したがすぐには認可されず、1898年(明治31年)に夜間の全線先走りが廃止されたものの、告知人の制度自体は1904年(明治37年)まで継続された。なお、このような危険かつ重労働であったため、京都では長らく、子供を叱るときに「電車の前走りにするで」という文句が使われていたといわれる。 また信号人も、ミスや怠慢のために電車が出会い頭になる事故が絶えなかったことから、行き違い箇所で電車を必ず行き違わせる方式にして廃止し、後にはトロリーコンタクターや通票を用いて強制化させた。 更に、前述の通り当初は勝手な場所で乗降を行っていたため、時に交通の妨害になる事があったことから、電気鉄道取締規則では街角や橋など往来の邪魔になる場所での乗降を禁じ、後には停留所を設けてそこでのみ乗降を取り扱わせるようにした。
※この「信号人と告知人(前走り)」の解説は、「京都電気鉄道」の解説の一部です。
「信号人と告知人(前走り)」を含む「京都電気鉄道」の記事については、「京都電気鉄道」の概要を参照ください。
- 信号人と告知人のページへのリンク