伯爵議員・子爵議員・男爵議員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:45 UTC 版)
「貴族院 (日本)」の記事における「伯爵議員・子爵議員・男爵議員」の解説
満25歳に達した伯爵・子爵・男爵に叙されている者の同じ爵位の華族による互選で選ばれた(貴族院令第4条第1項)。任期は7年。互選の方法などについては貴族院伯子男爵議員選挙規則(明治22年勅令第78号)に定められた。選挙は完全連記制であった。また、委託投票も可能だった。また、「投票ハ被選人ノ爵姓名ヲ列記シ次ニ自己ノ爵姓名ヲ記載スヘシ」と記名投票であった。 1890年(明治23年)7月10日、第1回貴族院伯子男爵議員互選選挙が行われた。貴族院令第4条第2項により、伯爵20人以内、子爵と男爵は各73人以内とされ、各爵の議員の定数は各爵位を有する者の総数の5分の1を超えない範囲とされた(第1回帝国議会において伯爵14名、子爵70名、男爵20名。第21回帝国議会において伯爵17名、子爵70名、男爵56名)。 1905年(明治38年)の貴族院令改正(明治38年勅令第58号)により、伯子男爵議員を通して定数143名とし、各爵位を有する者の総数に比例して配分することとなった。これは、日清戦争・日露戦争を経て、華族(戦功華族・新華族)の数が急増したことによる議員数の増加を抑えるための措置である。 1909年(明治42年)の貴族院令改正(明治42年勅令第92号)により、伯爵17名、子爵70名、男爵63名とされた。 1918年(大正7年)の貴族院令改正(大正7年勅令第22号)により、伯爵20名、子爵73名、男爵73名と増員された。 1925年(大正14年)の貴族院令改正(大正14年勅令第174号)により、年齢は満30歳に引き上げられ、定数は150名(伯爵18名、子爵66名、男爵66名)とされた。以後、貴族院廃止まで定数変更はない。 なお、伯爵議員・子爵議員・男爵議員として互選された議員が陞爵(爵位の昇進)した場合、その地位が保たれるかどうかについては初期の議会において資格訴訟に発展し、爵位の変動があった場合は前の互選による地位は失われることが確定した。伯爵議員が侯爵になれば互選によることなく貴族院議員となることから、問題になったのは子爵議員・男爵議員であり、具体的な例としては、子爵議員であった島津忠亮(旧佐土原藩主島津家当主)が、1891年(明治24年)4月23日に父・忠寛が幕末王事に功があったとして伯爵に陞爵した際、資格審査の申し立てがあり、資格消滅とされた事件がある。 伯爵・子爵・男爵議員は同爵の者による互選とはいえ、選挙がある以上選挙運動もまた存在した。こうした中、1892年(明治25年)発足した「尚友会」は、有爵者・貴族院議員の親睦会を謳っていたが、実質は研究会の選挙運動団体だった。完全連記制であるため、細かい票の割り振りは必要なく、また第一勢力が圧倒的多数を占めることのできる多数代表制であった。そのため、いち早く選挙運動団体を組織した尚友会は、協力した第2次桂内閣(桂太郎首相、大日本帝国憲法下で最長任期を記録した首相経験者)の後押しもあって、やがて伯爵・子爵・男爵議員の大半を牛耳る存在になった。
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