伝達と受容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 14:34 UTC 版)
ベロッソスの著作はヘレニズム世界ではほとんど知られていなかった。メソポタミアの歴史は、たいていの場合クニドスのクテシアスの『ペルシア誌』(Persica)によるものだった。むしろベロッソスは占星術関連の著作によってよく知られていたのである。キリスト教時代以前の著述家たちはベロッソスの『バビロニア誌』を直接には読まず、ベロッソスの著作を引用していたポセイドニオス(紀元前135年 - 紀元前51年)に依拠していたらしい。ポセイドニオスの記述も現存していないが、ウィトルウィウス、プリニウス、セネカらが三次資料として現存している。その後の時代、ポセイドニオスからいくつかの引用を経てベロッソスを伝えているものとしてはアエティウス(後1世紀 - 後2世紀)、クレオメデス、 パウサニアス、アテナイオス、ケンソリヌス(後3世紀)、パルクス(後6世紀)、アラトスの『パイノメナ』(紀元前315年 - 紀元前240/紀元前39年頃、ギリシア語)への匿名のラテン語注釈がある。 ユダヤ・キリスト教におけるベロッソス資料は、アレクサンドロス・ポリュヒストル(紀元前65年頃)あるいはマウレタニアのユバ(紀元前50年 - 後20年頃)によるものだった。アレクサンドロスの多くの著作の中にはバビロニアとアッシリアの歴史についてのものもあり、ユバのほうは『アッシリア人について』を書いた。双方とも一次資料としてベロッソスを用いている。ユダヤ人著述家フラウィウス・ヨセフスによるベロッソスの記録は現存している物語資料の一部しか含まないが、どうやらアレクサンドロス・ポリュヒストルに依拠していたらしい。3人のキリスト教著述家(シリアのタティアノス(後2世紀)、アンティオキアのテオフィロス(後180年、アレクサンドリアのクレメンス)によるベロッソス断片はおそらくユバに(あるいは双方に)依拠していたらしい。 ポセイドニオス同様、アレクサンドロスおよびユバの著作は現存していない。しかし彼らによるベロッソス資料はアビュディノス(後2世紀 - 後3世紀)とセクストゥス・ユリウス・アフリカヌスによって記録されていた。彼らの著作もまた散逸してしまっているが、カイサリアの司教エウセビオスの『年代記』にそうした記述のうちの一部が残されている。エウセビオスによる『年代記』のギリシア語原文も失われているが古アルメニア語訳(後500年 - 後800年頃)が現存し、また、ゲオルギオス・シュンケロスの『年代誌選集』にも一部が引用されている。ヒエロニムスによるエウセビオスのラテン語訳にはベロッソス資料は残っていない。エウセビオスの『福音の準備』におけるベロッソスについての言及はヨセフス、タティアノス、それとさして重要ではない資料(これは「バビロニア人ベロッソスはその『歴史』にナブコドノソロス(Naboukhodonosoros)を記録している」としかない)によるものである。 エウセビオス以降のキリスト教著述家たち(偽ユスティヌス(後3世紀 - 後5世紀頃)、アレクサンドリアのヘシキュロス(後5世紀頃)、アガティオス(後536年 - 後582年)、コレネのモーセス(後8世紀頃)、年代不明の地誌作家、それと『スーダ辞典』)はおそらく彼に依拠している。そういったこともあり、ベロッソス資料は断片的で間接的なものしか残っていない。もっとも直接的な資料は、おそらくアレクサンドロス・ポリュヒストルに依拠したヨセフスによるものだ。その結果、ベロッソスによる王名表の名称、書き記されていた可能性のある物語などは散逸したか、あるいは原型をとどめていない状態になってしまっている。物語資料はエウセビオスとヨセフスによって残されているが、エウセビオスのほうは異教時代とキリスト教世界とをつなぐ年代記を構築するために、ヨセフスのほうはユダヤ人よりも古い民族がいるという主張に反論するために、ベロッソスを利用していたにすぎない。しかしながら、ベロッソスによる大洪水以前の十人の王たちは、彼らの長寿さが『創世記』における父祖たちの長寿さと類似しているところに関心が持たれ、キリスト教護教家たちによって残された。
※この「伝達と受容」の解説は、「ベロッソス」の解説の一部です。
「伝達と受容」を含む「ベロッソス」の記事については、「ベロッソス」の概要を参照ください。
- 伝達と受容のページへのリンク