伝来・受容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 07:52 UTC 版)
青頸陀羅尼が千手観音について説く経典に導入されると、千手観音の功徳を賛える陀羅尼と解釈され「大悲心陀羅尼」(大悲呪)と名付けられる。 千手観音(十一面千手千眼観音)は青頸観音と同様にヒンドゥー教の神々を仏教に取り入れて成立した観音の変化身と考えられている。「千の手を持つもの」を意味する「sahasrabhuja(サハスラブジャ)」はヴィシュヌやシヴァの異名でもある。インド神話に登場する原人プルシャも、千個の頭や千本の足を持つ巨人と言われる。 唐の武徳年間(618年~626年)、瞿多提婆(くたでいば、Guptadeva?)という僧侶がインドから携えていた千手観音図及びその経本・行法を皇帝に進上した。これが中国における千手観音信仰の始めとされている。他の変化観音と比べて伝来がかなり遅れたものの、朝廷や密教の開元三大士(善無畏・金剛智・不空)の支持を受けたことから人気を得た。 永徽・顕慶年中(650~661年)、伽梵達摩が于闐(ホータン王国)で『千手経』を漢訳する。千手観音関連の経典の最古の漢訳とされる智通訳『千眼千臂観世音菩薩陀羅尼神呪経』(貞観年中(620~649年)成立)とは異なり、経典内に説かれる陀羅尼は青頸陀羅尼(抄本大悲呪)である。世間に広く知れ渡るのは、この伽梵達摩訳である。 開元年間(713~741)に始まる様々な陀羅尼の流行に伴い、陀羅尼部分は伽梵達摩訳『千手経』を離れて別行し、中国社会に浸透していく。その後、金剛智や不空による『千手経』の別訳とされるものも流布していく。晩唐期になると、陀羅尼文が刻まれた石幢が多く建造され、大悲呪によって奇跡を起こす僧侶の逸話も広まった。また、大悲呪とともに『千手経』における観音に帰命する十願・六向を抜粋した『大悲啓請』(大正蔵2843)が広く伝播した。敦煌で見つかった陀羅尼文や『大悲啓請』の写本の数の多さからその人気の程がうかがえる。 伽梵達摩訳がここまで僧俗を問わず絶大な人気を得たのは、他の千手観音に関する経典よりも比較的にシンプルで、陀羅尼の功徳が詳しくはっきりと説かれているからだと考えられている。
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