伝来・由緒
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作述されてからは、大江家38代大江広元が、鎌倉幕府・源氏三代に仕えたが、北条家の治世となってからは遠ざけられ、結果として理解しやすい『孫子』・『呉子』が武家社会の間で普及し、『闘戦経』を学ぶ者は一部の武家に限られ、伝えられた。 のちに、41代大江時親は金剛山麓に館を構え、当地周辺の豪族に兵法を伝授するようになる。その中には、鎌倉幕府を倒し、足利家に立ち向かった名将楠木正成もいたとされる(当将は最期まで権威に従い、裏切らなかった)。建武中興(1334年)後、時親は安芸国へ行き、毛利家の始祖となる。 戦国期に至り、大江家52代毛利元就の弟である大江元綱は、この書を出羽守の秦武元に授け、さらに彼から伝授された眞人正豊(橘正豊)は、自らを「江家(ごうけ)兵学の正統」と称し、元就の孫(吉川元春の子)たる大江元氏に「源家古法」と共に伝えた(この「源家古法」の表現は、当書内にも見られる)。 その後は、江戸期に至り、18世紀中頃の宝暦年間に伊予松山藩の兵法師範木村勝政に伝えられ、藩内において数代にわたって伝え続けられてきた。この他にも、何らかの形を経て、黒羽藩にも伝わっている。 最終的に『闘戦経』は大正15年(1926年)に海軍兵学校に全て寄贈され、戦前の海軍大学校でも、『闘戦経』を講義に用いた。現在9冊の写本が残り、それぞれ、本文だけのもの、注釈つきのもの、釈義のみのものがあり、現在に至るまで、古来の日本兵法思想とは何かといった研究に欠かせない資料となっている。
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