社司鏑木鏺麿との邂逅
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鏺麿は東京浅草現在の台東区に鎮座している由緒ある神社の代々の神官の出である。家学である神道の他に、民俗学にも造詣が深く明治23~24年頃には禁厭に関する草稿を物している。この草案には禁厭の起源から説き起こし、まじない方や禁厭の種類及び病源論にまで説き及び、主に古事記の物語を参照して引用解説を施しているが、その証の成否を確認する為に自著を持参し、明治25年夏に遠路土佐潮江天満宮の水位の下に出向し翁の教えを垂れることにした。邂逅して肝胆を砕く思いで水位翁に禁厭の極意の有無や自著の所感の教示を乞うと、快く承諾され一渉り"まじない"についての見解を述べ蠱の字義に説き及び後に、鏺麿が持参した『禁厭考』にも目を通し、実に懇切丁寧な説明で、さり気なく私見を述べられたが、学識の豊かさと博引傍証の説明に鏺麿は深く感銘を受けたという。禁厭は法を以て無形をして感せしむる物なり。人の善悪を云はず、行ふ人の一念にも関係せる事なり。禁厭を以て人を苦しめ、或は生し、或は詛ひ殺す法ありて禁厭とも詛咒とも云うへど其理に至りては一なるを、善方に用るをマジナヒと訓し、悪方に使うふをトコヒと云ふなり。まさにノロヒとも言ひ習はせしかども、本来は一つのもの也。更に敷衍して古事記に出典の様々な詛法にまで説き及んだ。この水位の博覧強記な説明により、禁厭(まじない)と詛(とごい)と呪(のろい)厭魅(えんみ)の一義が明瞭に判明したと述懐している。水位の著作である玄道或問の中で魂魄についての質疑に対して見解を述べられておられる箇所があるが、弟子に対する師の慈愛に満ちた質疑応答の内容を判読してもわかるように、その玄学的知識の蘊奥は並外れており天衣無縫な水位の学識の深さに驚愕した鏺麿は正式に入門の手続きを踏まえて、水位門下の道士となり鏑木家に伝来する由緒ある社家代々に伝わりたる文化伝統の家学を更に深く究めたと言われている。水位門下の逸材は全国津々浦々に及ぶが、その他にも同胞の神道学者にして道蔵にも造詣の深い伊予大洲の矢野玄道、讃岐の中田皇大神宮神官・増田猶太郎、同県小松島の多田勝太郎、地元天満宮神官の宮地左膳、石舩の宮司宮崎敬壽や常磐先生とも交流のあった原、岡藤太郎、由良藤兵衛、水位側筆の岑正雄etcそれぞれに活躍している。
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