伊豆の流人とは? わかりやすく解説

伊豆の流人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:52 UTC 版)

源頼朝」の記事における「伊豆の流人」の解説

伊豆国での流人生活は史料としてはほとんど残っていない。配流地として蛭ヶ小島ひるがこじま)が知られているが、この地は北条氏支配領域当初から同地居住したのかは不明である。 周辺には比企尼娘婿である安達盛長河越重頼伊東祐清側近として仕え源氏方に従ったため所領失って放浪中の佐々木定綱ら四兄弟従者として奉仕した。この地方霊山である箱根権現走湯権現深く帰依して読経怠らず亡父義朝源氏一門弔いながら、一地方武士として日々送っていた。そんな中でも乳母の甥・三善康信から定期的に京都情報得ている。また、武芸一環である巻狩りにも度々参加していたことが知られている。なお『曾我物語』には工藤祐経河津祐泰殺害したことで知られる安元2年1176年10月奥野巻狩りにも参加する頼朝の姿が描かれるなど、頼朝立場流人であったとは言え伊豆およびその周辺では「名士」として遇されていたとみられる説もある。 なお、この流刑になっている間に伊豆豪族北条時政長女である政子婚姻関係を結び長女大姫もうけている。この婚姻の時期大姫生年治承2年1179年とされることから、治承元年頃のことであると推定されている。なお、大姫生年安元2年1176年)とする説を唱える保立道久は、政子との婚姻はその前年である安元元年よりも以前としている。 なお、フィクション性が高いとされる曽我物語』には次のような記載がある。仁安2年1167年)頃、21歳頼朝伊東祐親の下に在った。ここでは後に家人となる土肥実平天野遠景大庭景義などが集まり狩や相撲催されている。祐親が在京不在の間に頼朝その三女(八重姫)と通じて子・千鶴丸を成すと、祐親は激怒し平氏への聞こえ恐れて千鶴丸伊東の轟ヶ淵に投げ捨て三女江間小四郎嫁がせる一方で頼朝を討たんと企てた。祐親の次男祐清からそれを聞いた頼朝走湯権現逃れて一命取り留めた。なお、前述保立道久頼朝八重姫政子両方と関係を持っていた時期があり、北条時政を婿としていた祐親が自身面子潰されたことが襲撃原因としている。 また、政子との婚姻に関して『源平盛衰記』次のような逸話がある。頼朝政子結婚反対する時政は、山木兼隆嫁がせるべく政子兼隆の下に送るが、政子その夜の内に婚礼の場から抜け出した。しかし、頼朝の妻となった政子山木兼隆との婚儀については、兼隆伊豆配流1179年であり、長女大姫1178年誕生していることから物語上の創作思われる

※この「伊豆の流人」の解説は、「源頼朝」の解説の一部です。
「伊豆の流人」を含む「源頼朝」の記事については、「源頼朝」の概要を参照ください。

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