婚姻の時期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 02:55 UTC 版)
婚姻の時期については、本多氏の系図『参考御系伝』や『幕府祚胤伝』では秀吉の仲介により、天正14年(1586年)に成されたと記されているが、『甲陽軍鑑』では天正11年(1583年)、『沼田日記』では天正16年(1588年)と記されるなど様々な説がある。 歴史学者の間でも意見が分かれており、黒田基樹は「二人の婚姻は真田氏の当主である昌幸が秀吉に出仕し家康の与力大名となった天正15年(1587年)以降と見て間違いないだろうとした上で、『沼田日記』の『天正16年(1588年)12月に婚約が成立し、翌天正17年(1589年)9月に入輿』との記述が、時期的に最も可能性が高い」としている。このほか、丸島和洋は時期は明らかにできないとした上で、「本多氏側が真田氏との和解後に婚姻が成立したと認識している点から、婚姻は天正15年(1587年)頃とみるべきだろうか」、平山優は「婚姻が結ばれる可能性がある最も早い時期として天正15年(1587年)、次に信之が家康の与力大名となることが確定した天正17年(1589年)を挙げているが、最も可能性が高いのは天正18年(1590年)」としている。
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