仮名における清音と濁音
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 00:24 UTC 版)
「仮名 (文字)」の記事における「仮名における清音と濁音」の解説
日本語の音節には清音と濁音の別があり、現在濁音をあらわす平仮名・片仮名には濁点が付くのが約束となっている。しかし仮名には、古くは濁点が付かなかった。 仮名が生れる以前の借字の段階では、清音に当てる借字のほかに濁音に当てる借字を区別して使っていた。上で述べたように借字を使った日本語の文は見た目には漢字の羅列であり、それをなるべく間違いの無いように読み取らせるためには、借字の音の清濁についても使い分けをする必要があったことによる。しかし平安時代以降の仮名には清濁の別が無くなった。それは連綿によって仮名の文字列に意味の区切りを作り出し、文の読み取りを以前よりも容易にした結果、仮名の清濁を使い分ける必要がなくなったからである。言い方をかえれば濁音を示す表記を用いなくても、不都合を感じない文を綴れるようになったということである。『古今和歌集』の伝本のひとつである高野切には紀貫之の詠んだ和歌が、 そてひちて むすひしみつの こほれるを はるかたけふの かせやとくらむ と濁点は付されていない。もしこれに濁点を付けるのならば、 そでひちて むすびしみづの こほれるを はるかたけふの かぜやとくらむ となる。「そて」を「そで」、「かせ」を「かぜ」と読むのは、この和歌の文脈では「そで」「かぜ」としか読めないからであり、ほかの部分の仮名についても同様である。つまり「て」という仮名で書かれていても文脈によっては「で」と読むというように、ひとつの仮名で清音と濁音を兼ねるようにしていた。これは片仮名についても同様で、経典に漢字の読みかたを示した片仮名が書き添えられていた場合、その漢字の置かれている文脈をもって判断すれば、清濁について迷うことはなかったのである。 もちろん単語だけを取り出してしまえば、混乱が生じることになる。前田利益が「大ふへん者」と大書した旗を背負い、それを「大武辺者」と読んだ同僚から僭越を責められた際に、「これは『大不便者』と読むのだ」と返した逸話がある。 ちなみに濁点の起りについては漢字のアクセントを示す声点からきており、本来仮名には必要なかったはずの濁点は、辞書の類や『古今和歌集』などの古典の本文解釈において、言葉の意味を確定させるために使われるようになった。その使われ方や形式は様々な変遷をへて、現在用いられる形に至っている。 また類似の事例は仮名に限った話ではなく、他の文字にも見られる。チェロキー文字は仮名の五十音で言うところのカ行とガ行を区別しないが、チェロキー語の話者は文脈で判断できる。ヘブライ文字では子音のみを用いるのが普通であり、母音は文脈で判断する。母音の付加は新たにヘブライ語を学習する者への便宜、あるいは外来語にしか用いられない。
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