今西家の由緒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 08:50 UTC 版)
川合・今西家の先祖は、古代豪族・十市県主で、安寧天皇の第3子磯城津彦命の後裔である。神武東征の大和平定において磯城邑の弟磯城が兄磯城に降伏を促し、協力して磯城県主を賜り、後に十市県主と改めた(『日本書紀』)。 南北朝時代には十市城主・十市民部太夫遠武の次男・十市次朗太夫直武が奈良県北葛城郡河合町大字川合にある廣瀬大社神主・饒速日命の後裔である曾禰連樋口太夫正之の婿養子となり、八千余石を領して河合城を築き城主となり河合民部少輔中原遠正と称し、南朝武将として後醍醐天皇を吉野潜行の折に奉送し、楠木正行麾下として十市遠康と共に足利義満と戦ったのが川合・今西家初代である(「曾禰樋口氏系図」『河合町史』)。 筒井順慶に圧迫されて今井郷に亡命した龍王山城主十市遠勝の後を追って、永禄9年(1566年)に一族である河合権兵衛尉清長(後改め川合長左衞門正冬)が家臣と共に当地に移住した。 十市家と川合家を恃んできた河瀬新左衛門氏兼を石山本願寺顕如上人光佐の門流に属させて河瀬入道兵部房とし、新しく今井郷に道場を営立して住職とし、一向宗と結んで、時の権力者織田信長と闘うために街の周囲に環濠土塁をうがち、西から今井郷を守るべく櫓などを備えた城構え(現今西家住宅地)を築き城塞都市化した。また、春日神社と天台宗多武峯妙楽寺末寺の常福寺を祀り造営した。元和7年(1621年)5月、大坂夏の陣の功により郡山城主で徳川家康の外孫の松平下総守忠明から今井の西口を守ったことから今西を名乗るようにすすめられ、5代目から名字を今西とした(姓は中原氏)。その時に薙刀 銘来国俊を拝領している。 その後、延宝7年(1679年)に今井町が天領になり、今西家は武士の身分を停止され町人身分になって、100年余り続いた自治権を失効することになるが、惣年寄筆頭職を幕末期まで務め、廃藩置県後も引き続き明治政府から市中取締りを命じられている。
※この「今西家の由緒」の解説は、「今西家住宅」の解説の一部です。
「今西家の由緒」を含む「今西家住宅」の記事については、「今西家住宅」の概要を参照ください。
- 今西家の由緒のページへのリンク