京成電鉄との競合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 02:55 UTC 版)
「千葉シーサイドバス」の記事における「京成電鉄との競合」の解説
その後、1956年に八千代台駅が開設され、翌57年には京成により新しいバス路線(八千代台線)が開通した。当時の八千代台線は八千代台駅(西口)〜高津新田〜実籾駅〜長作新田〜畑〜京成千葉駅というルートである。また、大久保線(船橋駅・津田沼駅〜大久保方面)も1957年〜62年ころに実籾駅経由で八千代台駅まで延長された。こうして、これら京成の2線は東洋の既存路線の中間部分(八千代台駅〜東習志野・実籾三丁目)で重複することとなった。なお、京成電鉄が実籾駅付近にバスを走らせたのはこれが最初ではなく、それより少し前の1954年に畑線(船橋駅・津田沼駅〜三山入口〜実籾駅〜長作新田〜畑小学校〜京成千葉駅)が開通している。 1963年2月1日には日立製作所習志野工場が操業を開始した。東洋バスはこれを受け、同工場への通勤輸送を目的とした幕張駅〜実籾駅〜日立製作所線を開通した。一方、京成電鉄も、大久保線のさらなる支線(実籾線と呼ぶこともある)として実籾三叉路(東洋の停留所名は実籾交番前)から西に分岐し、日立製作所(現在の千葉シーサイドバス東習志野六丁目停留所と同じ)および鈴木金属を経由して、東習志野二丁目(現、東習志野八丁目)に至る路線を1963年11月1日に開通した。このように、この頃は、実籾駅〜八千代台・東習志野について(高津入口〜大和田駅もだが)東洋バスと京成バスが同程度の本数でバスを走らせていた。 しかし、そのバランスは長続きしなかった。1970年ごろに京成の船橋営業所が大久保線を抜本的に改変(三山車庫の新設および同停留所発着便の大幅な増加)し、船橋駅・津田沼駅〜八千代台駅への乗り入れは取りやめられた(実籾線は続行)。代替路線として、三山車庫〜実籾三叉路(実籾交番前)〜高津新田〜八千代台駅という路線が設けられ、船橋・津田沼・大久保からの乗客は三山車庫で乗り換えることとなった。 結局、この代替路線はほとんど利用者がなく、1980年頃に廃止された。同じ1980年頃に京成はルートの適正化およびワンマン化のために実籾駅の踏切を渡る路線を全廃することとし、実籾線の代替となる千葉三線八千代台発着便(現、東習志野線)として津田沼駅〜大久保四丁目〜東電前〜京成ガード際〜花見川団地〜八千代台駅を開通した。これにより、京成から日立製作所という名の停留所はなくなったが、東電前停留所がその代替を果たすことになった。それとほぼ同時に、それまで日鉄溶接で折り返していた大久保線を東習志野八丁目経由で八千代台駅西口まで延長した。千葉に向かう八千代台線は全便が千葉幼稚園経由にショートカットされるようになった。 このように、昭和40〜50年代に京成の路線はめまぐるしく変わっていったが、東洋バスの路線はほとんど変わらなかった。ほとんど変わらずに、京成が路線を変える過程で自然に独占化したということである。こうして、幕張側のローカル線である長作町線は安定した乗客数を保ち、八千代台に至る路線は乗客があまりなく、主として実籾以南に収入を頼るようになる。 なお、八千代側のルートについては幾度か変わっており、当初は大和田だったものが、八千代台駅に短縮されたり、グランド経由で大和田に至ったりもした。新川大橋が開通すると、飯盛台、市民会館経由で勝田台駅北口まで直通したこともある。ただし、いずれも運行上の都合であり、八千代台駅をまたいだ利用はほとんどなかったと思われる。
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