交易路の存在に対する懐疑的な説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/15 16:59 UTC 版)
「ヴァリャーグからギリシアへの道」の記事における「交易路の存在に対する懐疑的な説」の解説
S. V. ベルンシテイン=コーガン(ru)、U. U. ズヴャーギン、A. L. ヒキティン、S. E. ツヴェトコフ(ru)らの研究では、ヴァリャーグからギリシアへの道を、「持続的に」利用された「主要な」交易路とみなす説に疑問を投げかけている。(若干の航行が行われていた可能性は否定していない。)彼らの疑問の根拠は3つのグループに分類される。 地理学的見地から 地理学上から見て、航路の困難さを論拠とする説である。主幹ルートとされる航路では、2つの分水嶺の間の陸路を克服する必要がある。1つはロヴァチ川水系とダウガヴァ川水系の間、もう1つはダヴガヴァ川水系とドニエプル川水系の間である。しかし、仮にバルト海からタウガヴァ川、ドニエプル川というルートを取れば、陸路は1回だけで、しかも5分の1以下の距離である。リガ、ポロツク、スモレンスクも通過できる。また、バルト海からヴィスワ川、ブク川、プリピャチ川、ドニエプル川のルートであれば、ヘウムノ、ポロツク、ブレスト、ピンスク、トゥーロフを通過し、すぐさまキエフ地域へ到達できる。同じく陸路も1度で済む。このようなルートがあるにもかかわらず、2度の陸路を含むルートを取るかを疑問点としている。 歴史学的見地から 文献上に出典が見られないことを論拠とする説である。スカンディナヴィアのサガには、このような航路についての記述がない。また、東ローマの資料にも、11世紀後半よりも早い時期の、スカンディナヴィアやその商人についての記述がないことが指摘されている。東ローマ側において、スカンディナヴィアを起源とする戦士・ヴァリャーグについての記述は、1060年の金印勅書が初出である。たとえもっと早い時期の事件に関する記述であっても、1060年より遅い時期に書かれた記述の中に存在している。このような記録の欠如から「ヴァリャーグからギリシアへの道」の存在に疑問を投げかけている。(ただし、サンベルタン年代記の839年の記述には、東ローマの宮廷における、ルーシから派遣されたスカンディナヴィア人に関する記述がある。) 考古学的見地から 「ヴァリャーグからギリシアへの道」とされるルート全体において、東ローマ起源の発見物が少ないことを論拠としている。たとえばスウェーデンのビルカ遺跡では、106の墓地から発掘された11万枚以上の貨幣のうち、アングロサクソンの貨幣は8枚、東ローマのものは2枚のみである。また、20世紀中期にゴットランド島で発見された700の財宝のうち、東ローマ起源のものは全部で410あるが、ノヴゴロドでは少数発見されたのみだった。 また、同時代の重要な交易路には、東欧-バルト海-ヴォルガ川をつなぐ交易路があった。ヴォルガ川、ラドガ湖、ヴォルホフ川、オカ川、ダウガヴァ川を含む、この交易路上における武器、装飾品、財宝、そしてビザンツの貨幣(300枚以上発見されている。)などの発見物は、この交易路にそって絶え間ない移動があったことを証明している。一方、「ヴァリャーグからギリシアへの道」南部のドニプロ・ウクライナでは、キエフとスモレンスクを除いて、このような発見はないことが指摘されている。
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