事故被曝者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 19:09 UTC 版)
「東海村JCO臨界事故」の記事における「事故被曝者」の解説
この事故では、3名の作業員が推定1グレイ・イクイバレント以上の多量の放射線(中性子線)を浴びた。作業員は急性放射線症候群になり、ヘリコプターで放射線医学総合研究所(以下「放医研」)へ救急搬送され、うち2名は造血幹細胞移植の関係から、東京大学医学部附属病院(東大病院)に転院し、集中治療室での医療が施された。3名の治療経過や、本事故において被曝した者の経過は、それぞれ以下の通り。 被爆者被爆線量負傷詳細結果作業員A(35歳)16 - 20グレイ・イクイバレント 高線量被爆及び染色体破壊、一時心臓停止による多臓器不全 1999年12月21日・23時21分死亡 作業員B(39歳)6.0 - 10グレイ・イクイバレント 高線量被爆及び染色体破壊、MRSA感染による肺炎、多臓器不全 2000年4月27日・7時25分死亡 作業員C(54歳)推定1 - 4.5グレイ・イクイバレント 高線量被爆 骨髄治療により回復、1999年12月20日退院 16 - 20グレイ・イクイバレント(推定16 - 20シーベルト以上)の放射線被曝をした作業員A(当時35歳)は、高線量被曝による染色体破壊により核型が完全に破壊され、それにより新たな細胞が生成できない状態となる。まず白血球が生成されなくなったため、無菌病室に移動され、実妹から提供された造血幹細胞の移植が行われた。移植術自体は成功し、直後は白血球の増加が見られたが、時間経過とともに移植後の新細胞の染色体にも異常が発見され、白血球数が再び減少に転じた。放射線障害により皮膚が形成されず、体液が滲み出て止まらなくなり、事故から59日後の11月27日、心停止。心臓マッサージにより約1時間後に蘇生したものの、心肺停止によるダメージから、脳および各臓器の機能が著しく低下、敗血症から最終的に治療手段がなくなり、事故から83日後の1999年(平成11年)12月21日23時21分、放射線障害による多臓器不全で死亡した。 6.0 - 10グレイ・イクイバレント(推定6 - 10シーベルト)の放射線被曝をした作業員B(事故当時39歳、死亡時40歳)も作業員Aと同様に高線量被曝による染色体破壊を受け、造血幹細胞の移植が一定の成果をあげたことにより、一時は警察への事情聴取を行うまでに回復した。しかし放射線障害により徐々に容態が悪化、さらにMRSA感染による肺炎を併発し、事故から211日後の2000年(平成12年)4月27日7時25分、放射線障害による多臓器不全により死亡した。 推定1 - 4.5グレイ・イクイバレントの放射線被曝をした作業員C(当時54歳)は、一時白血球数がゼロになったが、放医研の無菌病室において、G-CSF製剤などによる骨髄治療を受け回復。12月20日に放医研を退院した。 臨界状態を収束させるため、作業を行った関係者7人が年間許容線量を越える計画被曝をし、事故の内容を十分知らされずに、被曝した作業員を搬送すべく駆けつけた救急隊員3人が2次被曝を受けた。被曝被害者の受けた最高被曝線量は、最大120ミリシーベルト、50ミリシーベルトを超えたものは6名であった。さらに周辺住民207名への中性子線などの被曝も起こった。最大は25ミリシーベルトで、年間被曝線量限度の1ミリシーベルト以上の被曝者は112名であった。被曝者の総数は、事故調査委員会(委員長:吉川弘之・日本学術会議会長)で認定されただけで667名(2000年4月)であった。
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