事件を巡る議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:13 UTC 版)
「ディアトロフ峠事件」の記事における「事件を巡る議論」の解説
研究者の中には、捜査当局が以下のような事実を見落としたか、意図的に無視したと主張している者もいる。 のちにエカテリンブルクに拠点を置くディアトロフ財団(下記参照)の理事長となる、当時12歳のユーリー・クンツェヴィチ (Юрий Кунцевич) は、一行のメンバーたちの葬式に出席しており、彼らの肌の色が「濃い茶褐色」になっていたと回想している。 いくつかのメンバーたちの衣類(ズボン2着とセーター)が高い線量の放射能で汚染されていた。 事件のあった夜、事件の発生地点から南に50キロ離れた場所にいた別のトレッキング客の一行が、北(おそらく、ホラート・シャフイル山の方角)の夜空に奇妙なオレンジ色の光球を目撃したと報告している。同様の「光球」は、1959年2月から3月にかけて、イヴデリとその隣接する地域で、それぞれ無関係の目撃者(気象・軍関係者を含む)によって目撃されている。これらは後に、R-7大陸間弾道ミサイルを発射した光であったことが、エフゲニー・ブヤノフ (Евгений Буянов) によって証明されている。 一部の報告は、軍がこの地域を(何らかの目的で)密かに利用し、そのことの隠蔽に取り組んできたのではないかという憶測につながる大量の金属くずが、この地域に置かれていたことを示唆している。 ディアトロフ一行の最後のキャンプ地は、バイコヌール宇宙基地(ここから、R-7大陸間弾道ミサイルの試験発射が何度か行われた)から、ノヴァヤゼムリャのチェルナヤ・グバ(ソビエト連邦内の主要な核実験場だった)に直接通じる道の途上に位置していた。 テント内に残されたカメラのフィルムが現像された。彼らの姿を映したものが多数を占めたが、最後の1枚が判別不可能ながら「光体」のようなものであった。 アメリカのドキュメンタリー映画監督ドニー・アイカーは著作『死に山』において、現場のドーム状かつ左右対称の地形はヘアピン渦(カルマン渦)現象と呼ばれる特異な気象現象が起こるには理想的な環境であり、繰り返し起こった竜巻による強風と低周波音に晒されて一行がパニックに陥りキャンプを飛び出し、凍死や転落死に至ったのではないかと推測している。事件現場の近くには核実験場があるが、核ミサイルによる被ばくなら通常の2倍程度の放射線量では済まず、その程度の量なら大気汚染でもあり得ること(実験場から放射線が届いた可能性も)、また日焼けについても長時間雪原で日光に晒されていれば起こり得るとしている。同著にて、犠牲者の眼球や舌の喪失は、野生動物による捕食や、水に浸かっていたことによるバクテリアに起因するものだと推測されていた。
※この「事件を巡る議論」の解説は、「ディアトロフ峠事件」の解説の一部です。
「事件を巡る議論」を含む「ディアトロフ峠事件」の記事については、「ディアトロフ峠事件」の概要を参照ください。
- 事件を巡る議論のページへのリンク