主要な出典
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ノルニルに関する古ノルド語の出典元が多数残っている。ほとんどの重要な出典は、『散文エッダ』(スノッリのエッダ)と『詩のエッダ』である。前者が古い詩に加えて12世紀から13世紀にかけての族長であり学者であるスノッリ・ストゥルルソンによって改作された物語、説明、解説を含んでいる一方で、後者はノルニルが頻繁に引き合いに出される古い詩を含んでいる。
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主要な出典
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「傭兵の乱 (カルタゴ)」の記事における「主要な出典」の解説
ポエニ戦争のほぼ全ての局面に関する主要な出典が、紀元前167年にローマへ人質として送られたギリシア人であった歴史家ポリュビオス(紀元前200年頃 - 紀元前118年頃)である。彼の著作は現存しない軍事戦術の教典を含むものの、今日においては紀元前146年後のいずれかの時期、あるいは当の乱のおよそ1世紀後に書かれた「歴史」で知られている。ポリュビオスの著作はカルタゴ人とローマ人の見方の間にあって概して客観的であり、大枠は中立的であると考えられている。 カルタゴ人の著述記録はその首都カルタゴとともに紀元前146年に損なわれ、ポリュビオスの傭兵の乱に関する記録はいくつかの現存しないギリシア語やラテン語の出典に基づいている。ポリュビオスは分析的な歴史家であり、可能であればいつでも、著述する出来事の参画者に自ら話を聞いていた。スキピオ・アエミリアヌスが第三次ポエニ戦争でローマ軍を率い、傭兵の乱における活動の地の多くを通過する遠征を行なった際に、彼はその幕僚であった。「歴史」を構成する40巻の中で、第1巻の一部のみがこの戦争を扱っている。ポリュビオスの記録の正確性については過去150年の間に多くの議論が行われているものの、現在の合意は大枠で額面通りに受け入れるというもので、現代の出典における乱の詳細はほとんど全てがポリュビオスの記録の解釈に基づいている。現代の歴史家アンドリュー・カリーは「ポリュビオスはかなり信頼の置けるものとなっている」と考え、クレイグ・チャンピオンは彼を「驚くべき博識を備え、精励で、洞察力のある歴史家」と表現する。他により後世の、乱に関する記録が存在するものの、断片的あるいは概要の形である。現代の歴史家は後のシケリアのディオドロスやカッシウス・ディオの歴史記録をも考慮に入れるが、古典学者エイドリアン・ゴールズワーシーは「ポリュビオスの記録が通常は、他のいずれの記録とも相違する際に重きを置かれる」としている。銘、硬貨、考古学的証拠といった他の根拠も存在する。
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