中央公論社退社後
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1991年末、中央公論社を退社。1992年に竹内書店で同僚だった人物を経営者として、メタローグ社を設立。同社からは書評季刊誌『リテレール』が刊行された。同年10月にはCWS(Creative Writing School)という専門講座を開設し作家やライターを養成した。 だが、経営不振に加え、寄稿者への原稿料の大量不払いが発覚。資本金と貸付金の1000万円を放棄して、1994年暮れにメタローグ社を退社。なお、メタローグ社は残された若手メンバーで、雑誌や書籍などの出版活動を行ったが、2005年7月に倒産した。 1995年4月、学習研究社の編集顧問となる。1997年、同社の顧問を解雇される。 2000年、オンライン書店bk1「文芸サイト」編集長に就任。また1993年4月から1994年3月、NHK総合テレビ「ナイトジャーナル」の書評コーナー(月・木曜日)に出演した。 晩年は「スーパーエディター」を自称。村上春樹や吉本ばななの「発掘者」であるとも自称していた。だが両名が世に出、高く評価されたのは安原が担当するよりも前のことである。村上が処女長編小説『風の歌を聴け』で第22回群像新人文学賞を受賞したのは1979年4月のことであり、また同作品は1979年上半期芥川賞の候補にもなっていた。安原が最初に担当したのは『海』1980年4月号に掲載された短編「中国行きのスロウ・ボート」である。吉本も1987年に短編「キッチン」で第6回海燕新人文学賞を受賞していた。安原が最初に吉本と関わったのは『マリ・クレール』1988年4月号~1989年3月号に連載された『TUGUMI』である。 村上によれば、前述の「中国行きのスロウ・ボート」は生まれて初めて書いた短編小説だったため、相当の書き直しを要求されることを覚悟したが、変更点は一切なかったという。安原に対し「細かい実務的な作業は、この人の好むところではないようだった」という印象を述べている。その後も数多くの原稿を安原に渡したが「細かい語句的な訂正を別にすれば、書き直しを要求されたことはただの一度もなかった」という。 吉本ばななについては、前述の『TUGUMI』を『マリ・クレール』に連載させ、挿画に当時は版画家としか知られていなかった山本容子を起用するなどしている。なお、安原は吉本隆明宅に若いころから出入りしていて、ばななが4歳の時からの知り合いであった。 一方、村上春樹については1990年代前半頃から大きく批判をするようになった。『週刊文春』1992年12月10日号に掲載された記事の中で、長編小説『国境の南、太陽の西』をハーレクイン・ロマンスと断じた。また、1994年7月刊行の『本など読むな、バカになる』(図書新聞)において、「究極の愚作『ねじまき鳥クロニクル』精読批判」という長文の評論を発表した。村上はその態度の豹変ぶりをのちにエッセイ「ある編集者の生と死――安原顯氏のこと」(『文藝春秋』2006年4月号)の中で回顧している。村上はその原因のひとつを、安原が小説を書いていたことに求める。安原は書いた小説を雑誌に発表するほか、文学賞にも応募していたが、賞をとることはなく黙殺された。「そのことは安原さんの心を深く傷つけたようだった」と村上は述べている。 ジャズ評論も手がけ、CS衛星ラジオミュージックバードの番組「ヤスケンのギンギン・ニューディスク」でDJをつとめ、また寺島靖国の「PCMジャズ喫茶」にも毎回ゲスト出演した。綾戸智絵をいち早く評価するなど、常に新しい才能に目を向け続けた。オーディオマニアでもあった。
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