中央公論社時代
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竹内書店も解散の方向になり『パイディア』終刊後、中央公論社に入社。『海』の編集者となる。当時『海』の編集者であった村松友視が編集長と対立し異動願いを出したため、「代理要員」としてスカウトされたというのが安原の入社の理由であった。安原と親しくなった村松はそのキャラクターを把握し、「こいつを、一人で放置してはまずいことになる」と考え、異動願いを撤回した。安原は編集部在籍中に『レコード芸術』に執筆したコラムで大江健三郎を罵倒したため、大江が1年間、中央公論社が主催の谷崎潤一郎賞の選考委員を辞退する事件に発展した。 のち塙嘉彦が『海』編集長に就任し、塙、安原、村松とで、雑誌『海』の黄金時代を築いた。また『海』編集部一同で、当時「富士日記」を連載していた、武田百合子宅を毎月一回、訪問して歓談した。 村松は安原の死後、評伝『ヤスケンの海』(幻冬舎、2003年5月、のち文庫再刊)を出版、安原の「いい加減で破天荒」なキャラクターを綴った。「『過剰な読者+過剰な編集者』の目線で雑誌が作れる、有能な編集者であった」と評し、妻まゆみを、安原を広く包んだスケールの大きな「人物」として描いた。『ヤスケンの海』文庫判表紙の安原の似顔絵も、村松が描いている。 1984年5月号をもって『海』は終刊。安原は売れ行き不振で廃刊直前の『マリ・クレール』に移り、同年6月号から副編集長となる。「書評欄」を新設し、さらに同年9月号で「特集:読書の快楽」を企画したところ、当時は「ニューアカ」ブームで「知がおしゃれ」だったことも追い風となり、雑誌は完売となる。以降も同様の路線を続け、女性ファッション誌を「知的な思想・文芸雑誌」に変貌させる。ただし、安原が企画した「文庫本ベスト」が、当時社長の嶋中鵬二から「他社の宣伝行為だ」とクレームをつけられ、リストの一部を、他社の文庫から中公文庫に差し替えるよう、著者に依頼する事態になったこともあった。『マリ・クレール』での特集は、多くが、親交のあった見城徹に依頼し、角川文庫で刊行された。
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