両国関係の悪化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 15:39 UTC 版)
1783年のパリ条約の直後に、アメリカ側は条約の中で軍事同盟を終わらせる期日を決めていなかったことを疑問に思い始めた。それは条約が未来永劫に続くことを意味し、実質的にアメリカ合衆国とフランスの間の恒久的同盟を作ったことを意味していた。フランスと永久に結びつくことを嫌ったアメリカ人、特に財務長官のアレクサンダー・ハミルトンとその支持者である連邦党は、フランス革命を条約を公式に破棄する機会と捉えた。ヨーロッパ諸侯はフランス革命中にルイ16世が処刑されたことで、この条約は破棄されたと考える合意があったが、アメリカ合衆国大統領のジョージ・ワシントンはトーマス・ジェファーソンと共に、フランスの支配体制が変わっても条約は有効なままであると宣言した。 ワシントン政権は条約が有効なままであると宣言したが、ワシントン大統領の中立宣言とそれに続く1794年中立維持法によって、実質的に条約の軍事条項は無効化し、二国間の関係が次第に悪化する時期の始まりとなった。フランスの新しい大使エドモンド=シャルル・ジュネは、市民ジュネ事件の間にスペインの領土とイギリスの軍艦を攻撃するために、民兵隊を立ち上げ私掠船を用いようとしたが、ワシントンの中立宣言でフランスに対する世論を変え、長い間フランス贔屓で国務長官を務めていたトーマス・ジェファーソンを辞任に追い込むことになった。さらに1794年のロンドン条約、通称ジェイ条約に調印することで、多くのフランス人は、アメリカ独立戦争の間にその独立のために戦うアメリカにフランスが与えた支援にも拘わらず、アメリカ合衆国がイギリスの要求に屈し、フランスを捨てた裏切り者であると確信した。 ジョージ・ワシントンの辞任挨拶で、同盟関係がさらに悪化した。ワシントンはこの挨拶文で、アメリカ合衆国は条約の軍事条項を遂行する必要が無いこと、さらに同盟条約の結果として、現在フランスと結んでいるような恒久的な同盟の危険性について警告した。この条約に対する大衆の反感はジョン・アダムズ大統領のときに最高に達し、XYZ事件の最中にフランスがアメリカの全権使節を拒み、関係正常化を拒んだ後で、1798年7月7日にアメリカ合衆国議会によって条約の公式な破棄が宣せられた。フランスがフランス革命戦争の間にアメリカ海軍の艦船を捕獲したことに対する報復として、アダムズ内閣が擬似戦争と呼ばれるフランスに対する宣戦布告なき戦いを遂行することで、実質的に同盟条約を無効化し、フランス政府のみによって維持されている軍事同盟について、「非公式に」戦争状態にある二国間の「公式の」宣言と表現された。
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